見出し画像

【き・ごと・はな・ごと(第26回)】A・LA・つばき(2)

うちの田舎では椿を庭先になんか植えない。咲いたままぽたっと落ちるのが、頭を刀で切り落とされたみたいで縁起が悪いからでない?みんなイヤがるよ―古里談義になったときに、ふと椿の思い出ばなしになった。茨城の筑波山を望むその人の実家の周辺では椿は忌み嫌われたそうだ。子供の頃、冬の竹やぶに咲く赤い椿があまりにも綺麗なので、家に持ち帰り花瓶に挿そうとしたら、そんな不吉な花は飾るものではないと、家人にいわれたそうだ。そのくらいだから、こっち(首都圏)に移るまで、椿というのは山ん中とか墓場で見るくらいのものだったとか。また一方、津軽出身の友人の家では、椿は春を呼ぶめでたい花とされていて、床の間に好んで飾られていたという。椿の花は各々の土地柄、風土で捉え方がまちまちらしい。それだけに深く長くこの国の人々にかかわってきた樹木ということなのだろう。次の2話はそんな椿の因縁めいた、ちょっとふしぎな物語だ。

それにしてもスゴイ幹である。根元から三股、二股に分かれて、両手で抱えきれないほどに太い。群馬県桐生市広沢町に椿伝説のある森があると聞き、ではではと出向いてみれば、ここはれっきとした墓場であった。およそ100坪ほどもあろうか。鎌倉時代からこの地に住む旧家、周東家の墓碑が古色蒼然とした五輪塔などと共に居並ぶ。その場所を屋根のようにすっぽりと覆い尽くし、昼なお暗い藪を作っているのが三本の椿郡だ。樹齢不詳だがだが、およそ500年とも600年とも。ともかくそれが信じられないほどの樹景である。最大目通り1.5㍍、高さ6㍍。昭和42年に市の天然記念物に指定された。―あまり伸び放題なので彼岸頃に枝を落とす予定。それからだと花もだいぶ減る―と聞いていたので、中日を過ぎたこの日、いささか案じて出かけたが、幸いにも剪定はまだ。咲き誇る花びらが、生い茂る艶葉木のすき間からこぼれる光を受けて鮮血のように燃え上がる。―今からおよそ900年の昔、遠州征伐のさい、八幡太郎義家の家臣としてこの地にやってきた周東刑部成氏に、それはかわいい一粒種の姫があった。が不幸にも病のため亡くなってしまう。母の悲しみと愛情がとどいたのならどうか美しい花を咲かしてたも、と涙して母堂が墓前に挿したひと枝が育ったのがこの椿だとか。やや大ぶりで色鮮やかな緋色。藪椿の栽培変種。また「不断の椿」と呼ばれるが如く年中花が絶えることが無いのも特徴。もちろん春先が花の最盛期であることには間違いないのだけれど、真夏でも秋口でもポツリポツリと花をつけるとのことだ。

さて、同じく悲哀の椿伝説にしても、こちらは花の咲かない椿のおはなし。花をつけないのではなく、毎年、蕾はつけども花咲かずに散ってしまう。富士山を西に仰ぎ見る神奈川県海老名市。バス停の脇に棚で囲まれた椿地蔵尊にそのつばきはひっそりと生きていた。ちなみに停留所の名も椿地蔵である。―およそ300年の昔、江戸からはるばるこの地に滞在する名医、驢庵先生を訪ね来る途中、娘の病が急に悪化して帰らぬ人に。村人たちはねんごろに弔って地蔵堂をたてた。手向けた椿がいつしか成長したが、年のころならまだ蕾、花咲くことなく早逝した娘の魂が乗り移ったが為か、蕾をつけてもなぜかそのまま散ってしまうのだ。ほんとうに?疑りぶかい私としては確かめねばと出掛けたが・・・・椿の開花シーズンたけなわ。近くにある生垣の花はみごとに赤やピンクの花びらを広げているのに、地蔵尊のこの椿だけが、実ほどの小さな蕾を付けて、やけに青々としたままだ。しげしげと観察するとキュッと萼に絞られた蕾の内側に赤い花弁が覗いた。バスを待つ人に聞いても、皆、咲くのを見たことはないと自信に満ちた答え。ここを所有する善教寺さんに伺った。尼僧のご住職曰く、藪椿の変種でときたまあるものなのだと、お茶花に詳しい人は言いますよ。それほど珍しくないのだとか。

―?×××××・・・品種は?玉椿です。樹齢300年ですから大分弱ってしまって毎年樹木医に罹ってるんですヨ。落とした枝を持ち帰って挿し木して育ててみると、やっぱり一つも花が咲かないんだそうです。樹に元気がなくなってきたからか、膨らみそのものも以前に比べると大分小さくなってきたようですよ。―ということは当初、雄しべを抱えてコロンと咲く、いわゆる玉椿だったということか。それもこれも古文書があるわけではなく口伝に頼るしかないのだから何ともいえないのである。が、ともかくこの椿地蔵、今も土地の人々の信仰を集めていることは確か。善教寺では例年、秋の彼岸の中日(午前中)に地蔵尊にて追善供養を行う。

頭上を覆い尽くすように枝が這う(桐生・椿の森)
鮮血のように燃える・・・
うねうねと伸びる太い幹
バス停名も椿地蔵(海老名)
玉椿 咲かずに落ちる地蔵尊と歌碑が立つ
どれも蕾をひらかない
花弁の色を覗かせて散る

文・写真:菅野節子
出典:日本女性新聞―平成11年(1999年)5月15日(土曜日)号

き・ごと・はな・ごと 全48回目録

当サイトからの無断転載を禁じます。
Copyright © Setsuko Kanno

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?