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春の鹿

角川の『俳句歳時記』にある「春の鹿」の説明があまりにひどいので異議申し立てる。
いわく

“ 春になると、雄鹿は角が抜け落ち、雌鹿も脱毛し、まだらに色褪せて醜い。また鹿は十~十一月ごろに交尾し、五~六月に出産する。春、子を宿した鹿は孕鹿といい、やつれてものうげで、動作も鈍く大儀そうである。秋の鹿の美しさに対し、春の鹿は哀れを誘う。” 『俳句歳時記 』(角川書店 編)

どうだろう。
かわいそうだと思わないか。
私は春の鹿は決して醜くはないのだと証明するために、さっそく奈良公園へと出かけたのである。

その日用事をすませてから公園にたどり着いたのは夕方のことだった。近鉄奈良駅で降りて商店街の脇道を抜けると、興福寺、奈良公園へと道が続いていく。私はいつものようにその道を歩いて行ったが、何とすでにそこには鹿たちの影も形もなかったのである。
奈良公園の鹿たちは夜になると山のふもとに移動して眠りにつくのだ。とはいえ私がたどり着いたのはまだまだ明るい時間だった。奈良はお店が閉まるのが早すぎると皆不平を言うが、鹿が帰るのも早すぎではないか。もう少し頑張って観光客を楽しませてはどうか。私もせっかくこうして弁護してやろうと思ってやって来たのに…。

仕方ないからあきらめて帰ろうと思っていると、遠くに一匹の牡鹿おじかが立っているのが目に入った。そこまで行くには地下通路を通ってけっこう歩かねばならず、すでに「弁護しようと思ったが、見あたらなかったので仕方なく帰った」と書こうと頭で算段し始めていた私は、正直もう面倒くさくなっていた。
見なかったことにしようか…。
まあでも、せっかくここまで来たのだから、とにかく行ってみることにする。

やっとこの牡鹿のもとにたどり着いてみると、彼の前には二人の少女が鹿せんべいをかざして嬉しそうに踊り回っていた。鹿も私と同じく面倒くさそうであったが、せんべいをくれる手前ちゃんと相手をしてやらなければいけないのである。彼女たちは鹿という生き物の性格をよく知らないものだから、鹿も喜んでいると勘違いして無邪気に踊り回っている。そうして十分ほどおどけ回ったあとで、ようやく少女たちは満足して帰っていった。

それから私が牡鹿に近づくと、彼は失礼にもこちらにお尻を向けてぽろぽろとフンをこぼし、そのままどっかと寝そべってしまった。
彼は寝そべったままだらしなく枯れた松の落ち葉をむしゃむしゃと食べている。そんなものがウマいとはどう考えたって思われない。栄養があるとも思えない。面倒くさいから手近にあるものを口に入れているだけである。
じっと見ていると目をしばたたかせて露骨に嫌そうな顔をする。不愉快だと言わんばかりに鼻を鳴らして耳をぐるぐる回す。
脇腹に松葉の束がつきささっていることにも気づいていないらしい。「松の葉がささっていますよ」とせっかく私が教えてやっても知らんふりである。そっぽを向いてわざとらしく違うところを眺めている。
鹿たちは今日も驚くべき無愛想さで、わざわざ会いに来た私を見事に邪険じゃけんにしてみせた。

猫好きの人はよく「犬は人にびるからイヤ」だと言うが、鹿から見れば猫だって十分人に媚びているのである。
鹿たちは鹿せんべいを持たない人間になど微塵みじんの興味もない。彼らはいたって非人情である。しかし俳人 長谷川櫂さんいわく「風雅を解するためには非情であることが条件」だというから、彼らはきっと真に風雅を解する者なのだろう。

そんな鹿たちのことを私は犬よりも猫よりも愛する。私は彼らの茶人ぶりが好きである。
ただし今後『俳句歳時記』が彼らのことを何と言おうとも、もう一切弁護してやるつもりはない。


引用:
『俳句歳時記 第五版 春』(角川ソフィア文庫)

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