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望潮

今日の春の季語は「望潮」である。こう書くとめったには読める人もいないだろうが、望潮とはつまりシオマネキのことである。
シオマネキというのはあの干潟に住んでいる片方のハサミだけが異様に大きなカニの仲間たちで、大きなハサミを左右にはためかす様子を干潟に波をまねく姿に見立てて「潮まねき」という名前がつけられた。
近年はずいぶん数が減って絶滅が心配されているということだが、九州の有明ありあけ海にはまだまだたくさんのシオマネキたちが暮らしており、ムツゴロウとともに干潟の人気者となっている。

さてこのシオマネキの異様に大きな片手であるが、もちろんこれは潮を招く呪術のために巨大化したわけではない。だいたいの生物において、こういう意味もなく派手な格好をしているのはメスにモテたいオスである。シオマネキだってその例外ではない。つまり、彼らが本当に招いているのは潮ではなくてメスのシオマネキなのである。彼はいかにも九州男児らしく「おーい!おーい!」と鷹揚おうように大手を振ってメスを呼び、干潟の中にこしらえた自慢の巣穴へと招くのだ。
もっともこんな巨大なハサミは日常生活の上では邪魔になるばかりだから、オスのもう片方の手とメスの左右の手のハサミは決して大きくはない。それどころか、泥の中の小さな生物や有機物をこし取って食べるシオマネキにとって立派なハサミは必要がないため、メスの両手のハサミはとても小さいものなのである。彼女たちはその小さなハサミを器用に使って休みなく泥をつまんでは口へと運び、食料をこし取って食べている。
よく女の人は二つ以上のことを同時にするのが上手だといわれるけれど、どうやらそれはシオマネキのメスも同じのようで、彼女たちはせっせと泥をつまんで口に入れては有機物をこし取りつつ、一方では抜かりなくオスの姿を品定めしている。「彼は左利きね…(シオマネキのハサミの左右どちらが大きいかは個体によってそれぞれなのだ)。体も大きくて強そうだわ。それにあのおおらかな腕のはためかせ方…。」

こちらのオスはひたすら何度も「おーい!おーい!」と鷹揚に手を振るだけである。そういう不器用で男らしいところにメスは惚れるのである。メスは小さなハサミを使って細々こまごまとよく働きながら、上目づかいでオスの姿をじっと見つめている。オスはそんなしおらしいメスのことが好きなのだ。
「おーい!おーい!」
オスは大きくハサミを振るう。
メスはそれをじっと見つめる。
「黙っておれに付いて来い。」
「はい…。」

春の干潟の日は永い。
南から吹く暖かな風に誘われるように、彼女は彼の自慢の家へと入っていく。
それから彼らはそっと潮を招いて有明ありあけの海に巣穴を隠し、一夜の契りを結ぶのだ。



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