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初音

四日前に聞いた「ホキョ…」という頼りない声が私にとっての今年の初音であった。それは私が初音はまだかと注意していたから何とか気づいたものの、彼のラブソングはあまりにも自信なさげで弱々しかった。
初音はつね」とはその年初めて耳にするウグイスのさえずりのことである。

それから二日後の一昨日にはあちらこちらでウグイスたちが囀り始めた。うち一匹は早くも「ホーーーホケキョッ」と見事な名声を轟かせてみせた。さすがは春告鳥と称されるだけあって、彼の歌声を聞いた私の心の内には確かに「おお春だ…」という温かい実感が湧いてきたものだ。

多くの人がウグイスは春になると現れて夏が来れば自然消滅するのだと考えているようだが、ウグイスは留鳥であって一年中そこいらにいる。彼らは夏の終わりから冬の間はやぶの中でチョロチョロしてチャッチャと鳴くだけだから、誰もそれがウグイスだとは思わないのである。
つまり彼らは押入れに眠っていた雛人形みたいなもので、三月になれば一躍主役に躍り出て、いとも華麗な風流の権化ごんげとなってみせるわけだ。
われわれの体は彼らの歌声に春を感ずるDNAを保有しているとしか思えないのだが、それは私の思い違いだろうか?

ちょうど昨日Twitterで感想を下さった方に「歳時記を見るようになってから今まで気づかなかった色んなことが目に映るようになりました」というお話をした。その方は「小さな生き物に目がいきますし、好きではなかった虫や鳥にも愛おしい気持ちが湧いたりして、世界が違って見えて来ます」とおっしゃった。あらためて歳時記の果たす役割は素晴らしいと思う。やはりウグイスの声もそれが春を告げるものだと知って初めて春めいて聞こえるのだろう。
同時に私は昨今の子どもたちが、ひょっとするとウグイスの声になんの感情も抱かないのではないかと思って少し恐ろしくなった。
春を告げるウグイスの声は世代の垣根など超えた日本人に共通の当たり前の感覚だったはずである。それが共有できないとしたら、我が民族の間には恐ろしい隔絶が生じてしまったということにはならないか。
それとも今の子どもたちだって、立派にウグイスの声に春を感じて見せるだろうか…。

学校でもお金の稼ぎ方を教える教科をつくるべきだと誰かが言っていた。私はそれより「歳時記」という科目を新たに設けるべきだと思う。そのほうが今の子どもたちには緊急課題である。

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