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うららか

春の一日は暖かい。
原っぱで二羽のつぐみがぼーっとしている。
今日の彼女たちはとりたてて何の用事もないのだから、ただじっと柔らかな空を眺めたりして、終日ひねもすぼんやりとして過ごしている。
私はそんな二羽のツグミに「春うらら」を感じたのである。

「春眠暁を覚えず」とはよく言ったもので、ここ数日は眠くて寝床から抜け出すのが大儀で仕方ない。やっと布団を抜け出してからもまだまだ眠い。今朝もトーストが焼けるのを待つ間にうたた寝をして、冷めて固くなったパンをかじっているところだ。
昼になれば昼はまた昼で眠い。夜もいつもより早く眠くなる。まことに春うららである。

そんなだからツグミの顔を見ても眠そうに見えてしまう。しかし彼女たちの春はそんなに呑気なものではないのである。冬鳥であるツグミはそろそろ故郷の北国へと帰らなければいけない。それは長く危険な旅である。年にニ度やってくる大仕事を前に、彼女たちの鼓動は日増しに高まっていることだろう。
もっとも冬鳥だって必ずしも北国へ帰らなければいけないわけではない。実際に冬鳥のカモの仲間には日本に留まって夏を過ごすものもいる。四月も末になってまだ野原に遊んでいるツグミを見ると、おやおや今年は日本に留まるつもりかなと思って嬉しくなるが、気がつけばそんな彼女たちの姿もいつしか見られなくなっている。
なぜ冬鳥たちがどうしても北国へ帰らなければいけないのか私には不思議である。もちろんそれは繁殖地へ行って子育てをするためなのだろう。けれど本当にそれだけだろうか。

ときに子孫を残すことのみが生物の生きる目的のように言われるが、素直な目で彼女たちの暮らしを観察する人はそれが間違いであることをよく知っているはずだ。鳥たちは日々の暮らしを楽しんでいる。生きることそのものの喜びを知っている。ましてや虫のように一年で果てる命でもないのだから、たまには子育ては休んで日本でのんびり過ごしてもよさそうではないか。

だから彼女たちが北国へ帰る理由はただ繁殖のためだけではないはずなのだ。もし繁殖だけが目的であれば、天気の良い日を見ていち早く彼の地に渡り、縄張りを確保してパートナーを探すことだろう。四月も終わろうという頃まで居残っているツグミたちはいったい何をしているのか。
つまり彼女たちはこの一年を日本で過ごすことを決めたツグミなのである。大儀な渡りを辞めてしまったツグミたちは、暖かい春を楽しみながら鼻歌など歌って歩いている。
けれど彼女たちの心中は本当は穏やかではない。渡りをやめてしまったことへの後ろめたさでいっぱいなのである。北国へ渡った仲間たちは私のことをいったいどんな風に噂しているだろうか。また秋になって仲間たちが帰ってきたとき、どんな顔をして迎えたらいいのかしらん。そんなことを考え出すと、とても春うららな心持ちではいられないのだ。すると電線にとまったカラスがベランダのチワワを馬鹿にしてたわむれているのが目に入る。あろうことか彼らは滑り台をすべって遊んだりする。渡りをしない留鳥りゅうちょうというのは何と呑気な鳥なのだろう。
彼女の中で渡り鳥としてのプライドがふつふつと沸いてくる。
そうだ、私は渡り鳥なのだ。渡り鳥は海を越えて北国へ行かなければならないのだ。
私は行く。さらば気楽な留鳥たちよ。
さようなら日本。また会う日まで。

彼女たちは渡り鳥としてのプライドを守るために、今年も北国へと飛んでいく。
しかしまあそんなに急ぐこともあるまい。
今しばらくはこの暖かな日本の春を謳歌おうかしていてくれないか。長く厳しい冬をともに過ごしたお前たちが去っていく頃を、私はいつも寂しく思っているのだから。

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