見出し画像

テレメンタリー「母をさがして ~養子縁組で渡米した洋子~」と、それからの物語。

AbemaTVで、テレビ朝日系列で4月に放送された、テレメンタリー「母をさがして 〜養子縁組で渡米した洋子〜」が放送されます。

Abema TV
5月30日(土)17:30〜18:00
5月31日(日)10:30〜11:00

画像2

この物語は、私の元に届いた一通のフェイスブックメッセージから始まりました。

1947年の横須賀。戦後の混乱期に洋子は生まれ、貧しいながらも母の愛情に包まれて生活していました。ただ、洋子は父の顔を知りません。当時の言葉でいう混血児だった彼女は、貧困と差別の中、施設で暮らすようになりました。そして5歳の時、横須賀に駐留する米陸軍将校の養子となり、養父の帰国に合わせて日本を離れることに。渡米を知り、その前に「もう一度だけでも会いたい」と洋子が暮らす基地に何度も会いに来た日本人の実母、信子。「行かないで」と泣き叫ぶ洋子に母信子はこう言いました。

「いつか必ず迎えに行くから」

日本を離れて66年。洋子は日本に帰ることなく、母の音信を聞くこともなく。信じていた母の約束もいつしか忘れ、アメリカ合衆国テキサス州に暮らしていました。

洋子の娘、シャーナがフェイスブックで私にメッセージを送ってきたのはそんな時でした。

「キガワノブコを知っていますか?」

たった一つの共通点。同じ、木川、という名字を持つこと。シャーナはたったそれだけで私にメッセージを送ってきたのです。そして、私は冒頭の話を聞きました。
シャーナから送られてきた洋子の養子縁組を伝える当時の新聞。写真の中央には5歳の洋子が写っていました。その時、私の子供もちょうど5歳で、毎日毎日、私に甘えてくる。そんな年齢の時に、洋子はアメリカに母と離れて渡りました。私はこの新聞の写真をじっと見つめていました。当時のことを想像し、何かできることはないか、と考えました。

画像1

研究者である以上、私にできることは調べること。いてもたってもいられなくなったので、和歌山から横須賀へ。横須賀の街を歩き、かつては漁村だった彼女の故郷をめぐり、洋子の母を知る人たちを探しました。

66年の月日はあまりにも長く、市井の人々からそこに生活していたであろう、家族の存在をすっかり忘れさせていました。それでも少しずつ見えてきた洋子の家族。そして、「アメリカに行った人がいた」と地元の人が言うのを聞いて、人々の記憶に今も洋子が生きていたことを知りました。

洋子の家族は、地元を離れ、遠く八王子に住んでいました。八王子の人々と話して見えてきた母の像。工場で働き、いつも笑みを浮かべながら人々と接し、40を超えてから初めての結婚。夫とともに静かに過ごした生活、昭和の末、61歳で亡くなられていたこと。

洋子の母を探していたはずでした。私にとっては他人でした。しかし、いつしか私にとっても会いたい人になっていました。戦後の混乱期、外国人との間に子供を持った女性。子供のために一生懸命生きた母。八王子でひっそりと生きていた老後。そして、私は聞きたかった。

「あなたも本当は洋子と一緒に生きていきたかったのでは。本当は彼女を手放したくなかったのではないですか」

その答えを聞く術はもうありません。

洋子の養父は日本に駐留していた時の写真を多く残していました。しかし、そこには洋子の母の写真は一枚もありませんでした。そして、洋子は長い月日の間に、記憶にあったはずの、母の顔を忘れてしまっていました。

クラウドファンディングを行い、多くの人々の応援で実現した、洋子の日本への旅。この模様はテレビでも取材され、テレメンタリーという全国放送にもなりました。そして5月の今日、アベマTVでも放送されます。番組では、洋子の故郷の秋谷で母を知る人たちと会い、母のお墓参りをする様子が放送されます。母を知る故郷の人たちにとっては、洋子と会う時間は母と過ごした遠い昔の日々を思い出す大切な時間となりました。洋子にとっても彼女の中だけに生きていた母の実像を誰かと共有することができた初めての瞬間でした。かつての母の言葉。「いつか必ず会いに行くから。」その言葉は66年経って初めて、八王子の母の墓所を訪ねることで実現します。

画像4

そして、八王子で奇跡的に見つかる母の写真。母との66年ぶりの再会。洋子の涙でTVの中の物語は終わります。 

TVの中の物語は終わりましたが、私はこの旅をドキュメンタリー映画にすべく再び思い出の扉をひらきながら、日々少しずつ、物語として紡ごうとしています。

2018年8月にシャーナからのメッセージを受けて、2019年10月に洋子と横須賀の旅を終えました。その間、幾度となく泣きました。不思議な涙が何度も流れました。今まで自分が感じたことのない感情に出会いました。

この旅は私にとってどんな旅だったのでしょうか。それを何度も自分に問いかけています。

私は泣きました。5歳の洋子を新聞に初めて見た時。アメリカに渡り、洋子からその境遇を詳しく聞いた時。横須賀で初めて木川家を知る人に出会えた時。母が亡くなっていたことを知った時。暮石に刻まれた「妻 信子」の文字を見た時。記者会見で洋子が「母の墓前で何を母に伝えますか」と聞かれ「私は大丈夫と伝える」と答えた時。洋子が母の写真を見て泣いたのを見た時。

全てが同じ感情ではありませんでした。むしろ、全てが違う感情でした。

今、作っているドキュメンタリーは私の感情の記録ではありません。史実を加えて当時を伝え、見た人にも旅をしてもらう映画にしたい。

誰かを責める映画ではありません。残酷な歴史で生きた人々、その哀しみを心で感じる映画にしたいのです。時と空間を超えて、人を思いやれる、そういう映画にしたい。

私の物語は終わっていませんが、TVの中の旅も素敵な話です。ぜひご覧になっていただき、少し昔の人々の、歴史に翻弄された人々の人生を知ってほしいと思います。

よろしくお願いします。

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?