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PLASTICA

 世の中には、ぼくたちが知らないうちに起こることは無数にある。
 君はいつでも細い細い塔の先端に立っている。
 君が知っていることは、足元に降り積もったできごとだけ。それすらもぼろぼろと崩れていく。
 足の裏以外の場所に地面があるかどうかは、一歩踏み出してみなければわからない。
 そういう不安定な場所に君は立っている。
 君はいったよね。あると信じなければ、それらは存在しないと。
 君自身すら、君の存在を確かめられるわずかなものの中でのみかろうじて存在しているというのに。
 たとえば、君をみるひとの瞳の中に。その頼りない記憶の中に。
 扉は、未来からたぐりよせられて開かれる。あるとき唐突に世界は変わる。
 そのことさえ気づかないほど一瞬のうちに。
 それでも、君は飛ぶのだろうか。

 ×    ×    ×

 わかっていたのに間にあわなかった。
 青い車はもう角を曲がりかけていて、すぐに見えなくなった。
 リサイクルできるプラゴミの収集日は週に一度で、驚くほど優秀な彼らは指定時間ぴったりに集積所をさらっていく。そのことは経験としてもうわかっているのに、仕事がオフの今日はつい寝過ごして出しそびれてしまう。やれやれだ。
 ゴミ袋の中は、ほとんどが食品関係のケースや包装フィルムだから、かさはあるけれど重くはない。かしゃかしゃと音がなる袋をぶらさげてアパートに戻りかけると、隣の空き地にいた雀の群れがわっと飛びちった。
 この空き地には、ひと月前まで一軒の家があった。
 庭いじりのすきな初老の夫婦が暮らしていて、季節ごとに百合やバラが垣根からあふれていた。なんらかの不幸があったのだろう。ある日とつぜん家は取り壊された。植物もすべて引き抜かれ、すっかり更地となった今は雀たちの楽園と化している。
 舞い戻ってきた雀たちが群がる先に小さな紫いろのものが見えた。
 目を細めてよく見ると、プラスチックの小さなかけらだ。ほかにも陶器やビニル袋の切れ端や、ひとの暮らしの名残りが土くれにまぎれていた。
 ゴミ袋を持ち直す。感傷にひたるほどくだんの住人のことは知らない。

 部屋に戻ると、テレビとラジオのスイッチをいれる。仕切り直しだ。
 ラジオから流れる音楽をBGMに、消音にしたテレビの映像を流しっぱなし。そのあいだにお湯をわかしなおし、スマホをチェックする。朝のルーティンワークは休みの日だろうと変わらない。
 姉から仕事の連絡が一件。秋冬向け商品のデータを別に送る旨。はいはい。今日は休むと伝えていたが。ともあれ「了解」と返信すると、娘にせがまれアニメ映画を見に行くとか、姑が高いチョコを送ってきたとか、矢継ぎ早に私信をたんまり送り返してきた。これはスルーしてもいいだろう。
 テレビでは、春先のどこかの浜辺が映し出されていた。
 泥の浜が続く干潟で、その先の岬の向こうに工場の白いシルエットが霞でもやっている。
 麦わら帽子をかぶった中年男と黄色いレインコートを着た若い女が干潟に立ち、画面に向かってなにか語り掛けている。
 気になる絵柄だ。手元のクロッキー帳を開く。
 その映像に、ラジオの声がリンクする。
――わが国の行方不明者は年々増え続けており、年間十万人を突破しました
 一瞬まぶしい海の彼方がうつる。
――原因として認知症などの疾病による場合がもっとも多く……
 祈るように首を傾け、男と女は足元の泥を見下ろす。濡れた浜に、二人の影が逆さにうつっている。
――すでに社会問題にもなりつつあり、社会学、心理学、犯罪学各方面から有識者の方々が……
 足元の砂浜がクローズアップ。いくつもの小さな穴があり、穴から砂を押し上げ水が湧き出ている。
――事件に巻き込まれた可能性も……
――この情報化社会において一個人が完全に姿を消す可能性は……
――金銭面からの足取りも……
――新しい人格として……
 紙に4Bの鉛筆を滑らせる。干潟の陰影を夢中になって描くうちにラジオの音も声も耳に入らなくなってきた。
 作業机の上にはノーパソや筆記具や色鉛筆が雑多に転がっている。そのデスクに仕方なさそうに立っているのは親指くらいの大きさの塩ビの人形たち。ライトグリーンの宇宙人や鈴をつけた小さいブタ。中が空洞で指人形にもなっている。前の仕事でつくったものだ。今はない子ども向け知育ゲームのキャラクター。
 美術系の短大を経て、ファンシーグッズや玩具の企画制作をする小さな会社に勤めていた。デザイン担当として、いくつかのグッズやキャラクター商品を手がけた。小さい会社だったから実際にはなんでもした。クライアントから依頼をうけ、企画をだし、ときには市場調査もする。
冬のはじめに風邪をこじらせた。疲れもありなかなか治らず、病院へいくと肺炎になりかかっているといわれた。そのまま年末休暇にはいってしまい、結局一か月近く休んで出社した。
 オフィスの空気が変わっていた。
 仕事を教えてくれていたベテランのチーフデザイナーの姿が見えない。大柄で声が大きく、いるだけでオフィスが活気づくような人だったのに。
同僚の話によると、年明けの企画会議で社長と衝突した直後、いなくなったという。私物を会社に置きっぱなしだから、上の人たちは突発的に出て行って戻るのも気まずいのだろうと話していた。それから何度かメールをだしても返事はなく、一人暮らしの部屋にも戻っていないことがわかった。遠い親戚だかがやってきて、それきり。
 もうびっくりしちゃった。あのひとがねえ。
 チーフが担当していた仕事がほかのスタッフに割り振られ、目の前の業務に追われて同僚の話もそこまで。彼女がいつもすわっていたデスクは、もともと乱雑に書類が重なっていたけれど、いまはほんとうにただの荷物置き場になっていた。そっと引き出しの中をのぞくと、塩ビでできた肌色のっぺりとした固まりが転がりでてきた。キャラクターグッズの試作品だろうか。
彼女は新人の私によくいっていた。


 一瞬でいいんだよ。手元にあるだけで和んだり勇気がでるのがいいの。
 たとえ、あっというまに忘れられて、捨てられちゃったとしてもさ。


 休みを告げた時にも、健康な肉体に健全なアイデアが宿るからね、ゆっくり休みな、といってくれた。なのにとつぜんチーフはいなくなった。それでも会社はまわっている。まるで彼女が最初からいなかったみたいに。
 そう思ったとたん、まわりの色彩がぬけおちていった。
 姉がたちあげた子供用品のネットショップの手伝いに声をかけられ、それを機に会社をやめた。心機一転とばかりにこの町に引っ越してきた。
 顔をあげるとテレビの映像は囲碁の解説に替わっていた。ラジオからはささやくような流行りの音楽が聞こえている。ふとスマホを見ると、留守電の着信履歴が一件。
 いつのまに。開かなくてもわかる。ホシイからだ。
 ホシイはメールもLINEも好まない。
 たいていは電話で、しかも私がいない時間にかぎって電話をかけてきて、「××に×時にいる」といった断定形のメッセージを残していく。こちらの都合がどうかなんて聞かない。
 ホシイにいわせれば、人と人が出会うということは偶然の現象であって、不自然にことをすすめると未来が歪む、そうだ。そのくせ自分は誰かとした約束は必ず守る。たとえ相手が忘れているようなことでさえ。
 ホシイと会ったのは、この町にきてすぐのころ、たまたま入った古本屋で高そうな画集を夢中になってめくっていたら、フルネームで声をかけられた。
 設楽、ひなたさん?
 振り向くと、棚に本をいれていた男が脚立の上からすべるようにおりてきた。
「覚えてない? おれ、ホシイ。ホシイ、ショウ」
 すぐ思い出した。小学校の同級生だった。途中から入ってきて、卒業するとまたどこかへ引っ越してしまった。なのに、すぐに昔の面影が蘇ってきた。声や背丈こそ変わっていたけれど、細身で、ひょうひょうとした佇まいはあの頃と変わらない。
「ホシイ、くん。うわ。久しぶり?」
 同窓生モードで声を張り上げたが、どうして胸にコアラのマークのついたジャージの上下にゴムのよれた靴下をはいてるときに会ってしまったのかと心の中で声をあげていた。
「ホシイでいいよ。そう呼んでたろ」
 そうだった。女子は、いや私は、男子を名字で呼んでいた。
「まあ、あの頃はね。ええと、てか、よくわかったね」
「ああ。ずっと探してたから」
「え」
「待ってて」
 ホシイは店を飛び出し、すぐに一枚の画用紙を手に戻ってきた。
「早っ」
「ここの二階に間借りしてるんだ。ほら」
 息をきらせて、画用紙を広げて見せた。
 クレヨンと水彩絵の具で描かれた海の絵。裏に「6年 設楽ひなた」と幼いながらも生真面目な筆跡で書いてある。
「この絵。私の」
「そう。君のだ。前はこの名字が読めなかった。今は読めるけど」
 この絵でなぜか県のこども絵画コンクールで金賞をもらい、しばらく校内の壁に貼りだされたことがある。
「どうしてホシイくん、ホシイが?」
 ホシイは犬のように首をかしげて、首すじをぽりぽりとかいた。
「盗んだんだ。ごめん」
「盗んだ?」
「おれが壁からひっぺがして盗んで、もって帰った」
「で、ずっと持ってたの」
「いつかどこかで偶然会ったら、すぐに返せるようにね。でもやっと返せる。ごめん。長いこと」
 卒業証書のように差し出された自分の絵を私はうやうやしく受け取った。
 あれから10数年。聞けば何度も引っ越している。そのあいだずっと持ち運んでいたわけか。なんと律儀で悠長な計画だろう。やりようによっては、もっと早く見つけられたかもしれないのに。
 そういうとホシイは、「必ず会えると思ってたし、会いたかったから」としれっという。
 それ以来、たまに会うようになった。
 ホシイが電話をかけてきて、たまたまこっちも時間があえば会う。
 ホシイは、たとえば飛行機の中においてある機内誌に似ている。
 そこにあるから一応開いて読む。すると思いがけず記事が深く面白く写真もみごたえがある。でも地上の生活のなかで定期購読したいかといわれれば、家で読む雑誌でもないような気がして、また次にめぐりあうときにと思う。そして実際にめぐりあえば間違いなく夢中になり、どんな雑誌よりもすみずみまで読む。
 ホシイといると、自分がニュートラルになるのがわかる。むやみに落ち込み自信喪失のどん底であっても、やたらハイになって世界が自分中心にまわっていると信じたくなるときも、ホシイといるとなんでもない自分になる。たぶん凍った水辺を低くすべるような彼の声や、目をそらさず耳をかたむける仕草がそうさせるのかもしれない。
 そういう稀有な男友達だった。
 ホシイはどう思っているのか。少なくとも酔ったいきおいで寝たおされたことはない。いつも自分から電話をかけてくるくせに、ある距離感を保ち続けているのがわかる。
 でも、この日のメッセージは少しだけ違った。
「一緒にいきたいところがあるんだ。少し遠いんだけど」
 明らかに誘いだ。一緒に、という言葉を使ったのは、はじめてではないか。
 よけいな想像はしない。そう考える癖がついていた。
 指定された時間まで20分。留守電はもっと前にきていたにしても急すぎる。駆け引きなんてできないたちで、私は部屋を飛び出した。
 
 ホシイは、いなかった。
 高架下のビルの二階にある喫茶店は、今どきインベーダーゲームの卓があり、喫煙OKという昭和で時間がとまったような店だ。店員は愛想悪いし椅子も何もかもくたびれているけれど、コーヒーはおいしく店は広い。店内には、勉強する人、チーズケーキをゆっくりゆっくり口に運ぶ老婆、ただ煙草を吸いたくて飛び込んだ営業マン風の背広姿の男などさまざまな人種がいる。こうした店の好みはホシイと一致している。
 一杯めのコーヒーの底が見えてきた。サービスでついてきた薄いビターチョコをかじる。
 待つことには慣れている。相手がこないことにも。最高で5時間待った。
あのときの男とは飲み屋で出会い、岬の家を描いたアメリカの画家の話で意気投合し、数ヶ月つきあった。私の作ったオムレツを食べながら、胸をもみほぐしながら、「悪くない」というのが口ぐせだった。
 ある日冬の駅の改札で5時間待たせたあげくに、男はこなかった。同時にメールも電話も通じなくなった。
 そのときやっと男が住んでいる場所を知らず、共通の知り合いもいないことに気づいた。おかげで男はなんの形跡も残さずに、私の前から消えることができた。あとで話を聞いた姉は、お金の無心はなかったか、避妊はしていたかとぐいぐい問い詰めた。私が怒りも泣きもせずに何も悪いことはされなかったというと、姉は不安げにいった。
 ほんとうにいた人のことだよね?
 ホシイも、彼やほかのアドレス帳から消えた友人たちのように、静かにフェイドアウトしていくかもしれない。だいじょうぶ。覚悟はできている。今はまだ。
「ごめん。遅くなった」
 頭の上からホシイの声が降ってきた。
よれた白いTシャツに、多色づかいのチェックのシャツ。髪は寝ぐせがついたまま。学校に忘れ物があって、と悪びれずにいう。ホシイはこの春から大学院に入り直していた。
「なにそれ」
 スプーンでホシイの首もとを示す。
 ホシイの首にかけられた革紐には、赤や黄のプラスチックのいびつな輪がついていた。幼子の遊び道具を首にかけているようで、まったく似合わない。
「これは……ワクチン。お守りっていうか」
「なんか、宗教?」
「まさか」ホシイは笑って、革紐をシャツの中に押し込んだ。
やってきた店の女の子にすぐいくからと手を振った。
「出よう。車を借りたんだ」
 朝はあんなに晴れていたのに、空には灰色の雲がおしよせてきていた。遠い山々の稜線がくっきりとみえたから、じき雨になるのかもしれない。
「降るかな」
 ホシイはハンドルに前のめりになって空を見あげた。
 車は高速を飛ばす。
 ホシイが持ち込んだ大きなスーパーの袋にはお菓子やパンや飲み物がたっぷり入っている。嬉々として中をあさっていると、その中に小さな紙袋をみつけた。
「なにこれ。あけていいの」
「忘れてた。おまえに」
 中にはころんと赤いビーズがついた細い革のブレスレットがあった。
「へえ、かわいいっ。樹脂粘土かな。発色がめちゃくちゃいい。作ったの?」
「お袋が残してった」
「え。じゃあ」
 ホシイが中学のころにお母さんは亡くなっていた。
 私の戸惑いに、ホシイは手を振った。
「あ。形見とかそんな重たいもんじゃなくて。ただ、ひかりに持っててほしいんだ。今日だけでも。……いや?」
「いやってことは。いいのかなとは思うけど。じゃいただきます」
「それより朝食ってないんだ。そん中におにぎりあったろ。皮むいてくれよ」
「皮っていうな」
 おにぎりのビニールをはずしてホシイに渡す。つけたばかりの赤いビーズが手首で揺れる。なんだろう、これは。自分にも相手にも誤解をさせたくはないのでクギをさす。
「ねえ、これはデートというもの?」
「あ、いや、ごめん」
「ごめんはいい。どこに何しにいくのかだけでもいってよ。ビーズで私を釣って、殺して埋める? でもあたしお金ほとんどない。その前にヘンなことするなら」
 ホシイは吹き出した。
「うわ。それ、ちょっとおもしろいな。ヘンなことってなんだ。いってみな」
「ホシイ」
 私がにらむと、ホシイは手をだした。
「おにぎりが先」
ホシイはおにぎりにかぶりつき、飲み込むと、いった。
「ここ数年、行方不明者が増えてるのは知ってるか」
 袋から緑箱のポッキーをとりだし、ぺりぺりと封をあける。
「ああ、朝なんか聞いたような。年に十万人とか」
「十三万人だ。届け出がないのもあるからな」
 なぜかホシイはきっぱりといった。
「そのひとりに、おれの先輩が数えられた」
 ポキン、とポッキーが折れる。ビター味。
「大学の」
「いや。バイト先で。たまたま年上で名前覚えるの面倒だから先輩っていってる。自称アーティスト」
 ホシイはおにぎりを食べきると、ペットボトルのお茶を飲んだ。
「一度だけ、その人んとこで鍋に誘われていったんだ。他は知らない連中ばかりで、ちょっと居心地悪かったよ。おまけに恋人だって男の人を紹介された。中国人の留学生で、日本語はおれよりうまかった」
「それはそれは」
「それきり先輩には会ってない。なのに、ずいぶんたってからその中国人の彼がいきなりおれを訪ねてきたんだ。彼がいなくなったって」
 中国人の彼は先輩と約束をして、部屋を訪れた。先輩の部屋の鍵はあいていた。中は暖かく、音楽がかかっている。マーラーとかベートーヴェンとかそういう類ので、彼らのお気に入りなんだそうだ。ソファもまだ暖かい。それで彼は先輩がなにか買い忘れたものでもあって、ちょっとだけ出て、またすぐに戻ってくるだろうと思った。でも
「帰ってこなかった」
「ああ。忽然と姿を消したって号泣されてさ。本当に声をあげて泣いたんだ」
 ホシイはぐふふと思い出し笑いをしていった。
 見知らぬ中国人の彼にかなり感情移入して、私はいった。
「自分が捨てられたとか、そういうこと思わなかったのかな」
「まったく。それは絶対ありえないといいきった」
 ホシイの先輩は、お金もなにももたずにいなくなった。SNSもメールも応えない。恋人の彼は心から心配したけれど、未成年でもない男の失踪で、しかも家族の申し出ででもないとして、警察はさほど親身になってはくれなかった。彼の親はとうに亡くなっていて、何年も自由に暮らせるだけの遺産がまだ、銀行にたんまり残ってた。もし他の誰かが先輩の失踪に疑問を抱いたなら、恋人の彼が一番に疑われただろう。
 そうして彼は、わずかな手がかりを求めてホシイのもとへやってきた。
「おれは話を聞いてやったほうだと思うよ。ヤツはたったひとりで先輩の失踪の原因を調べはじめた。それでついに結論がでたといって、レポートを送ってきたんだ」
「なにか事件に巻き込まれていたの?」
「それはないらしい」
「違う人生を送っていた」
「それもない」
「じゃあなんて」
「変身したんだといった」
 変身?
 ホシイは首にかけた革紐をシャツからひっぱりだした。あの、カラフルな輪がしゃりしゃり揺れる。
「このプラスチックの輪っかに」
 
 ホシイは正面を見つめたまま、いった。
「ヤツは考えた。先輩は変身した。プラスチカした」
 
 プラスチカ。
「プラスチ化」と書くのかもしれない。
 人間が突然プラスチックに変身する現象のことで、たとえば「口裂け女」や「人面犬」といった類の都市伝説のひとつ。この話が小学生以下のこどもの間でのみ広がるのは、そのあまりに荒唐無稽な内容のせいだろう。少し成長すれば、「じゃあ服はどうなる」「そんな小さくなるわけない」とアラをみつけておしまいにされる。それでも、なにが魅力なのかこの話はずっと語り継がれている。
 いつでも定期的に噂になっては消えていく。大人になってからはまずなかったが、一番最近では前の仕事をしていたときに耳にした。
 公民館の会議室に、都心に住む小学校四、五年の女の子たちが集められた。こどもの嗜好のリサーチのため、ネットやメディアに情報が流れる前のナマの声を集めるというのが目的だった。年が若い私が進行役になり、あのいなくなった年上の女性社員が記録係。最初は聞かれたことにおずおずと答える程度の女の子たちも、慣れてくるとこちらがとめなくてはならないほどおしゃべりが暴走した。
 そのときに、プラスチカの話がでた。
――ああそれ、知ってるー。
――そうそう。ね? 突然変身しちゃうんだよね。
――マネキンみたいになるの?
――違うよー。なんかよくわかんないかたまりになるんだって。
――のろいなんでしょ。
――ビョーキビョーキ。さわるとうつるもん。
――この前音楽のセンセイいなくなったじゃん。あれプラスチカしたんだって。音楽室に先生が落ちてたって。みどり色の丸いの。
――ええー。マジー?
――マジマジ。でも掃除当番の子が知らないで捨てちゃった。
――きゃあ。こええ。
――こわくないよー。だってー

 たかがプラスチックじゃん。

 たかが、という言葉がまだ幼さの残る小さな唇に似合わなかったからだろう。うつむいてメモをとっていたチーフデザイナーが、顔をあげたのを覚えている。彼女も突然いなくなったわけで、あの試作品の塩ビの人形に変身したとしたら。

 ホシイはしゃりんとプラスチックの輪を揺らした。
「聞いてる?」
「うん。ちょっと飛んでた。その輪が先輩ってひとだったっていうの?」
「そういってる」
 先輩の部屋に、この輪が落ちていた。最初は気にとめなかったけど、次第に違和感を感じた。モノトーンで統一されたこの部屋にあるにしては、不自然ではないか。こういう人工的な色彩を先輩は忌み嫌っていたはずだ。
「それでプラスチカ。そのカレさ、ええと、ちょっと混乱しちゃったんじゃない」
「ふうん」
 ちろりとホシイが私をみる。
「なに」
「言葉を選んだな。いや、号泣はしたけど冷静だったよ。国費でわが国最高峰のの大学にくるくらい頭いいヤツだよ」
「そんな人が、ニッポンの子どもの噂話を信じちゃったの?」
「逆だよ。最初彼はプラスチカの話はぜんぜん知らなかったんだ。純粋に科学的に検討したあげく、導いた結果が、たまたまプラスチカの話と似ていると気づいたそうだ」
 いつしか車は高速を降り、見知らぬ街道を走っていた。
ときおり出現する大きなスーパーマーケット。パチンコ屋。車のディーラー。まわりは山だったり畑だったり住宅地だったり。ともあれ関東圏はでたようだ。
「ひなたはどう思う?」
「はっきりいっていい?」
「ああ」
「ばかみたい。漫画じゃあるまいし」
 くふんとホシイは鼻をならした。
「はいテスト。プラスチックの原料知ってる?」
「石油でしょ。厳密にいえば石油を精製したナフサからできる。フィギュア素材のことは詳しいよ」
「さすが。ヤツが仕立てた感動的なレポートはそこからはじまる」
 石油のなりたちは、この21世紀をもってもいまだに謎とされている。太古のプランクトンや藻のような生き物の残留物が、長い長い時間をかけて圧迫されてできたという生物起源説が定説となっている。
「要するに、その原油からできたプラスチックと、人間まで進化をとげた生物は、ものすごく遠い親戚ともいえる」
「果てしなく遠いよ。真っ赤な他人でしょ。そんなこといったら炭素や水素でできたものは、みんな親戚になっちゃう」
「まあまあ。彼は先輩の部屋に落ちてたこのプラスチックの成分も調てるる。そしたらなんと」
「新しい成分が?」
「いや。おもちゃによく使われる素材と同じ。ポリ……」
「ポリエチレン、ポリプロピレン、ポリ塩化ビニル。そこらへん」
 私はシートにふんぞりかえった。
「もういいよ。その恋人くんは天才的な頭脳でプラスチカを証明する化学式を発見したわけ?」
「そうじゃない」
 ホシイは息をとめて、いった。
「プラスチカがおこる可能性がゼロじゃないっていったんだ」
 原油が本当に過去の生き物の残骸だったのか。人間は猿が進化したものなのか。そもそも生き物はどうやってできたのか。本当のところは誰も知らない。見ていたわけではないのだから。ただ推測したにすぎない。人間がなにかの拍子に分解して炭素や酸素や水素の分子に戻るとしたら。再び高度な結合を果たすとしたら。もしかしたらもしかしたら。誰もまだ知らない0・0000001パーセントのところに真実があるのかもしれない。
 目を見開け。耳をすませろ。真実を見逃すな。
 彼は異国の大学の窓から叫び続けたという。警備員たちがとりおさえるまで。
「ヤツは恋人を信じ、自分がだした結論を信じた。おかげで彼は本国に帰されたけどね。ほぼ強制送還」
 街道沿いのコンビニで休憩をとった。
 薄曇りで寒々しい。熱いレモンティーを両手でかかえて飲んでいると、背後からホシイが自分のジャケットを肩からかけてくれた。
「それで?」
 ホシイは煙草に火をつけて、ゆっくりと遠くへ煙を吐き出すといった。
「それで、ホシイがなんでその輪っかを」
「ヤツの研究室に入り込んでこっそりいただいた。全部じゃ悪いから一部だけ」
「ちょっと、またそんな」
「人聞きが悪いな。今度は、やつのためにやるんだよ。ボランティア」
「プラスチカを証明する手伝い?」
「じゃない」
 灰皿に煙草を押しつけると、振り向いた。
「先輩の消息をつきとめる。ヤツを論破したいんだ。いこう」

 車は細い林道をぬけ、砂利のしきつめられた広場でとまった。
 そばに白い建物がそびえたっていた。
 ホテルの入り口のようなやけに豪勢なエントランスはゆるくカーブを描いている。けれども、建物は見るからに荒れ果てていた。あちこちから雑草がはえ、窓にガラスはほとんど残っていない。壁にはつる草がはい、亀裂が生じ、一部ははげおちて土台の木や鉄骨らしきものがみえていた。
 最初は海外資本の会社の会員制ホテルとして建てられた。そのあと、自己啓発セミナーの団体が買い上げたがそれもすぐに破綻して放棄されたままになっている。こうした廃墟の常で、たまに入り込んで住みつく人がいるという。廃墟マニアのサイトでも紹介されていないレアな物件だとホシイは鼻をふくらませた
「ここに先輩が出入りしてたことはわかってる」
 ホシイは仕事も住む場所も転々としていて、その人脈は浅く、広い。
 そのなかの、あまり道徳的でない仕事をしたさいに先輩らしいひとの話を聞いたという。
 一時身を隠す必要があったそのひとは、この廃墟で何日か過ごしている。ほかにも何人か出入りしていたが、互いの素性にふれないことは暗黙のルールとなっていた。その中に先輩らしき男を見かけたと口をすべらせている。
 ハリガネのように細い身体。長い髪。首すじに髑髏のタトゥー。ホシイのいう先輩の様相に一致する。ほかにも自由業だかアーティストだか、職業も年齢もわからない者たちがどこからかやってきては、何日かいてまたばらばらと去っていった。
「何してたの」
「たぶん、草か、せいぜいチョコだろうな。先輩は好きだったし」
 きょとんとしていると、ホシイが注釈をいれた。草はマリファナ。チョコはハッシシ。つまりドラッグ仲間が集まっていたわけだ。
「失踪しようと警察の世話にはなりたくなかったろうな」
「ホシイは、今も先輩がここにいると思ってるの?」
「いや。もう三か月たつからな。ただ、潜伏するなら格好の場所だろ。先輩がここにいたって証拠がつかめればいいと思ってる」
「ちゃんと生きていた証拠をね」
 つとめて明るくいったのに、ホシイは顔をこわばらせて首からぶらさげたプラスチックの輪を見つめた。
「少し前にボヤがあった。変な連中がいるかもしれない。どうする? 一緒に行く?」
「行かないっていったら、ここで待ってなきゃいけないのよね」
「いや。帰る」
「中に入らずに?」
「ああ。おれもひとりじゃイヤだ」
「なにそれ」
 ホシイは私をみあげると、一句一句くぎるようにいう。
「ひなたに、一緒に、きて、ほしいんだ」
 厚い雲のすき間から光がさしこんでいた。建物は傷んでいたけれど、光があたる部分がしゃぶりつくされた骨のように清潔そうに輝いている。
 いくよ。小さな声でつぶやくと、ホシイは赤いビーズのブレスをつけた私の左手をあたりまえのように握り、歩き出した。
 
 正面玄関は厚い木の板でふさがれていたけれど、裏手にカギをこわされた従業員用の扉をみつけた。
「誰かいたらどうするの」
「相手によるな。あやまるか逃げるか話すか」
「生きてる人間ならまだいいけど」
「同感」
 はいってすぐの部屋は、厨房らしかった。
 設備らしい設備はとりのぞかれ、埃だらけのステンレスの流しには、からっぽの瓶や缶が山ほど積み込まれている。その真ん中に、布でおおわれた人型のかたまり。ホシイが布をめくるとさんざんいたずら書きをされたみじめなアポロン像が現れた。
 さらに奥に進むと、明るく広いホールにでる。
 天井の高い吹き抜けのホールで、ガラスのない高い窓がぐるりと取り囲み、外の光がりこんでいる。ガラスやゴミが散らばるコンクリートの床。天井からはシャンデリアが下がっていたらしい照明の配線あと。隅には打ち捨てられたソファの残骸。相当に豪華なつくりだったのだろうが、過去の栄光を打ち消してしまうほど下卑た落書きが壁一面に描かれていた。
「落書きは? 誰それ参上、とか。証拠になる?」
「生きていた証だから、もっと確実なのがいいな」
「そんなの、あたしだってないんですけど」
 ホシイは「だよな」と笑うと、いきなり大きな声で叫んだ。
「おおい、誰かいますかあ」
 かすかに声が反響し、あたりは静まりかえった。
「だってさ」
 ホシイは親指をたてて、奥にある広い階段にむかった。
 鉄骨とコンクリートがむきだしになった階段をのぼると、双方向に廊下がのびて客室が並んでいた。長めの廊下は、車をとめた側に面して広い窓がついていて明るい。ドライヤーやら、赤ん坊のおむつやら、どうしてこんなものがと思うものがあちこちに落ちている。消火器があったところ、絵が飾ってあったところ、いろいろな形跡はあったけれど、コンセントひとつさえ取り外されていて、見事にからっぽの建物になっている。
 私たちは手分けして、ひとつひとつの部屋をたんねんに見てまわった。
 ほとんどの客室の扉もあけっぱなしか、なくなっている。がらんとした客室のいくつかには、かき集めたクッションや布を床にしきつめ、誰かが入り込んで生活していた気配があちこちにあった。缶ビールや山ほどの煙草の吸殻や壊れたラジオやツメ切りや雑誌やカップ麺のカラ。どの部屋もひとがこなくなってずいぶん経っているようだった。
 最上階で、生活の気配がありありと残る部屋も見つけた。
特別室なのか、つくりつけのバーカウンターがある。かなり清潔好きな住人らしく、この場においてもなお明らかに掃除をした形跡があり、ゴミらしいゴミは落ちていない。黒い箱型のテーブルがあり、その上に花瓶のつもりらしいガラス瓶が転がっていた。大きめの窓にはガラスこそ残っていないが、カーテンを模したビニールクロスがかけられている。
 もしやと思い、つくりつけのロッカーや壊れた引き出しを次々開く。なにもない。
 窓から風が入り込み、部屋の隅にあったちらしが舞い、ばらばらと小さな粒状のものが散る。白やクリーム色のプラスチックの球。一階のホールにもあちこちに落ちていた。
 外からヒューイと鳥の鳴き声が聞こえた。
 ビニールクロスを開くと、建物を取り囲む森の向こう側に海が広がっていた。車道は海のそばを通らなかったので、まるで気がつかなかった。雲間から落ちる光が、ところどころ海を照らしている。端のほうにえぐれた砂浜があり、その先に小さな集落も見える。この建物は岬に入るところにあるとわかる。

 廊下に人間の手が落ちていた。
 ひゅうと血の気が引く。よく見ると、マネキンの一部だった。
 すぐそばには、かたむいた扉。扉のようすからして倉庫だったのだろう。
 心づもりをして扉を開くと、むっと異様なにおいがあふれでた。
 焼け焦げた部屋いっぱいに色彩のかたまりがあった。
 天井まで届くほどの累々たるプラスチックの山だった。
 玩具や道具や容器として、もとは何かに使われていたのだろうけれど、すべてが欠けたり、溶けてめくりあがり原型をとどめていない。細長い窓からはつる草がはいりこみ、がれきの山をつかみどるように触手を伸ばしている。
 プラスチカ?
 思わず後ずさりすると、どんと背中がなにかにぶつかり悲鳴をあげた。
「なんだ」
 ホシイが私の両肩を強くつかんでいた。目の端であのプラスチックの輪が揺れている。
 ホシイは肩ごしにのぞきこむと、私を部屋から遠ざけた。
「ゴミためだ。ここで火遊びをしたやつらがいるな」
 そうだった。たかが、プラスチックなのに。
「だいじょうぶか。息があがってる」
「うん。驚いただけ。なにか、あった?」
 ホシイは首をふる。奥の部屋で、手巻き煙草のペーパーを見つけたけれど、それきりだと。
「無駄足だった。悪かった」
 ホシイの指が頬にふれる。
「いいよ。あたしが」
「ごめん。ひなた。おれは」
 階下でものが倒れる音がした。いくつもの足音も。ふたりして耳をすます。
「出てった。ヤバい。車が置きっぱなしだ」
 階段をかけおり、階下のホールにたどりついた。
 誰かが見ている。しかもひとりではない。
 やっと戸口に近づいたそのとき、なにかが頬のそばをかすめ飛んだ。
 水たまりに落ちて浮いているのは、小さなプラスチックの球。
 ホシイはきっと上を睨みつけると、私をかばうように立ち声をあげた。
「出てこい。危ないぞ」
 くすくす笑いが響く。
「聞きたいことがある。最近、男がこなかったか。髪の長い、やせたやつ」
 知らねえ。まだ変声期になっていない少年の声がした。
「おまえらが火遊びしたのか」
 ちげえよ。
 生意気な口ぶりにむっとしたが、ホシイは「わかった」とだけいった。
「ひとついっとく。西側の階段はぜったいに使うな。足場が腐ってる。ああもうひとつ。この建物は来週取り壊しの予定だ。これはもう決まってる。おまえらがどっかでがめてきたゲームはすぐに見つかるぞ」
 声は聞こえないが、どよめいた気配を感じた。
 廃墟をアジトにしていたのは大人だけじゃなかったらしい。
 外に出ると、ホシイは車のワイパーの隙間や車の上にあるプラスチックの球を乱暴にはらい落とした。
「建物をひとめぐりしてくる」
 車の中でホシイを待っていると、小学生くらいの男の子が窓ガラスをたたいた。
 窓をあけると、男の子は顔をほてらせていった。
「あのね」
「うん」
「ぼく、見たよ」
「さっきいってた細い男の人?」
 男の子は首を振った。
「ううん。太ったおじさん。部屋でね、火、燃やしてた。すぐ消えたけど」
「えっ。火は……消えてたのね」
「ちがうよ。消えたのはおじさん。しゅうって音たてて、プラスチカした。ほら……こんなふうに」
 男の子がどろりと溶け始めた。
 コンコンと車の窓をたたく音。
「ひなた」
 車に乗り込んだホシイの腕をつかむ。
「寝てたのか。どうした」
「海にいこ」
 
 西の雲が細く赤く染まり、東の空には暗闇がおしよせていた。
 浜におりる白いコンクリートの階段に、私とホシイはならんですわった。
 季節はずれの広い砂浜は誰もいない。
 ホシイは海が苦手なんだといった。嫌いではなく苦手だと。
「泳げないの」
「いや。おれがいた町は、近くに遠浅の浜辺があってよく泳いだり遊んでたよ」
 ホシイは東北にある海沿いの町で生まれた。
 いつもどんよりと曇った遠浅の海。その浜辺を歩くのは、転校してくるもっと前のホシイ。そしてもうひとり、小さい男の子がいた。男の子は遠縁の子で、両親を亡くし、ホシイたちと暮らしていた。
 ホシイの父親は小さな建設会社で働いていた。現場にでることが多くしょっちゅう引越しをしたが、生家があるこの町にはたびたび戻ってきた。二代目社長になったとたん会社がつぶれ父は仕事捜しに奔走する。母は近くの魚市場で働いていたが病気がちだった。そんな状況のときに男の子を養子にしたいという話がもちあがり、大人たちは半ば安堵して男の子を送り出すことになった。
「おれはあいつと仲がよくて、よく一緒に浜辺に遊びにいった。干潮になると、海辺にはいろいろなものが流れついていると知ってたから」
 外国の文字がかかれた木箱の破片や、きれいな貝や、水で洗われ丸くなったガラスの破片。そんなお宝をみつけると、ホシイたちは歓喜した。男の子はまだ幼いのにホシイよりも、そういうお宝をみつけるのが得意で、ホシイはちょっとくやしかったという。
「あいつが明日いくっていう前の日も、おれたちは浜辺にいった。いつも通りにしたかったんだ」
 ホシイは手を丸めて風をよけながら、やっと煙草に火をつけた。 
「あれを最初にみつけたのも、あいつだった」
「あれって?」
「魚。みたこともないくらい長い魚だった。長いひげがはえてて」
 これ、知ってる。
 男の子は、正確に魚の名前をいうことができた。深い海の底に棲んでいる魚だった。
 ホシイが学校にいっているあいだ、家でこうした図鑑を好んでみていた。
「いろいろあったせいか、いつもどこか遠慮ぎみのおとなしいヤツだったよ」
 深い海の底にいるはずのその魚は、たまに浜にうちあげられることがあるという。そのほとんどが息たえているというが、ホシイたちがみた魚はかろうじて生きていた。えらをひくひくさせて、口からなにかを吐き出していた。
 ホシイは、苦しげに顔をしかめた。
「奇妙な……奇妙なものが口からあふれてたんだ」
 魚が口から吐いていたのは、色とりどりの小さな粒粒だった。
「その中に、いくつか粘土をこねたような固まりがあった。生きてうごめいているようで気色悪かった。でも、なんでか気になって、おれは手を伸ばして」
 ホシイの手が宙をさまよい、はっと聞き耳をたてるように空をみあげた。
 なにもない空。
「ホシイ?」
 煙草の灰が根元までたどりつき落ちた。私が煙草をとりあげると、ホシイはゆっくりと目線をおろし私を見た。目の中に光が少しずつ戻ってくるのがわかる。そして今初めて気づいたかのように、いった。
「ひなたか」
「うん。ここにいる」
 手を伸ばすと、心細げに指先だけを強く握りしめてきた。
海と空の色が黒く交わっている。私がこどものころ描いた海もこの色だった。
 五年の夏休みあけにホシイはやってきた。ホシイは細くて小柄な少年だった。北のほうの海が近い町からきたと紹介された。私は海を見たことがなかった。そんなこと今までなんとも思わなかったのに、海の町からきたホシイをみて急に海が見たくなった。両親はミニスーパーを経営していて、休日もめったに休めない。だからよけいに海にあこがれた。
 図画の時間に海の絵を描いた。夏の終わりにプールの底から上をみあげたとき思いついて、よくある水平線のある海ではなく、海の底の風景を想像して描いた。学校の時間では足りなくて、家に持ち帰っても描き続けた。図鑑の写真をまねた、変わった形の魚やクラゲ。海の底には色とりどりの奇妙な花。海の中には雪が降っていた。
 コンクールで賞をもらったその絵は、校長室前の廊下に貼り出された。
ある日、ホシイから声をかけられた。
「設楽。絵見たよ」
 どきどきした。海にいったこともないくせに、嘘の絵を描いたんだろっていわれるのかと思っていた。でもホシイはいった。
「すごくいい。絵かくひとになれば」
一度も話したことがない彼が、名前を覚えてくれてたことがうれしかった。海の町からきたホシイに海の絵をほめられたのもうれしかった。初めてほめられた。美大をめざしたのも、そのときの潜在意識にすりこまれてたのかもしれない。
 小学校を卒業してすぐに、ホシイが別の町に引っ越したことはあとで知った。当然同じ学区の中学にいくと思っていた私は、ひそかにショックを受けていた。
 一度だけ、ホシイの家があったところにいっている。
 古いつくりの二軒長屋で、そのあとすぐ取り壊されて駐車場になった。感傷にひたる暇さえなかった。
 ひとはいなくなる。そのとき私は初めて実感した。

 帰路は早かった。
 どこにも寄り道せずに、まっすぐに元きた道を戻った。
 先輩の話をホシイはもうしなかった。私も男の子の話をしなかった。
 昔みた映画やおいしいラーメン屋やお笑いのネタの話などをしているうちに見慣れた町並みにたどりついていた。
「おれんちでメシ食う?」
 レンタカーを返すと、ホシイはなんでもないという顔をしていった。
 いつものホシイだ。
 ここは深読みするまいと決めて、いくいくとはしゃいでいった。最初に会ったときは古本屋の二階に間借りをしていて、そのあとも何度も引っ越している。今住んでる部屋も長くはいないけど、と前おきをして歩き出した。
 駅前の商店街で焼き鳥やタコ焼きや、焼酎やワインなどをわいわいいいながら買う。
「あたしたち、こんなのばっかだねえ」
「いまどきのワカモンらしいよな」
 商店街の先の、迷路にも似た住宅街を右に左にと折れるうちに、さすがにひと気は少なくなっていた。さんざん運転して、重い瓶ものを持っているのはホシイだったけれど、私は「ねえまだ」とさすがに不満を口にした。
 ホシイは両手に袋をぶらさげているので、あごで道の先をさした。
「ほら、でかい木の枝がはりだしてるとこ」
「おう」
思わず声がでた。
 板塀の途中にある門柱らしい木の柱から入ると、中の敷地はかなり広かった。銀杏のオ大木を取り囲むように、いくつかの古いアパートが建ちならんでいる。中庭には、鉄の板でおおわれた井戸と石の洗い場があり、さびたこども用のブランコもあった。どこからかアニメの音声や赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。遅い夕食の煮炊きのにおいも。
「わ。味あるね」
「気に入った?」
「最高」
「だと思った。昔は会社の家族寮だったそうだ。トイレ炊事場共同だけど、一応風呂がある。それに」
「なに」
「ペットもいる」
「飼ってるんだ」
「ミッキーとミニーとその他大勢」
「それはちょっと」
 老朽化を理由に近々取り壊しの予定があり、そのあとはマンションになるらしい。
「それまでの期限つき。もうほとんど立ち退いていて残ってるのはわずか。もともと知り合いの部屋をまた借りしてるようなもんだから」
「じゃあ引っ越すの?」
「そのときがくればね」
 共同の土間で靴をぬぐ。昔の下宿屋ふうの靴箱にはひしゃげた男もののサンダルが転がっていた。ホシイの部屋は、二階の奥で、その階にほかに住人はいなかった。
 ホシイの部屋はかなり広い和風の角部屋で、二方向に大きめの窓がある。ホシイが窓をあけると、ほわりと秋の風がはいってきた。古い木枠の窓のはきだしが本棚がわりらしく、何冊も本が並んでいる。
 窓ぎわの角に、折りたたみ式のテーブル。その前の椅子の背に、研究室で使っているらしい白衣がかけてあった。デスクの前の壁に貼られた写真は、ほとんどが外国の見知らぬ風景だった。電化製品といえば、ノートパソコンと、かろうじてテレビが畳の上におかれている程度。
 前の住人がおいていった家具をそのまま使っているといいながら、ホシイはちゃぶ台を部屋の真ん中にだし、隅においてあるクッションを投げてよこした。
「なんかあたしとまったく違う暮らしなんですけど」
「ひなたはどういう生活」
「もっとグチャグチャ。ものであふれてる。今日みた廃墟の部屋のほうが近いよ」
「そりゃすごいな」
ホシイは押入れからタオルを出してひかりに渡した。
「なに」
「風呂。今なら入れる。ガキもこない時間だし」
 同じ棟の一階から渡ってすぐのところにある共同の浴室は、大きめの家庭風呂といったところだった。子供用シャンプーや浴室のおもちゃが転がっている。この世はプラスチックだらけ。プラスチック。プラスチカ。呪文のように蘇る言葉。左手首の赤ビーズ。ぬるいお湯につかりながら、私はこんなとこでなにをしてるんだろうとおかしくなった。
 ホシイから借りたTシャツをきて部屋に戻ると、コップやお皿もでて準備されていた。
「ここ暗いから」とホシイは照明がわりにテレビもつけた。
 テレビはブラウン管タイプの白黒で、なんとチャンネル式。いくつかチャンネルをまわして料理番組でとめた。まじめそうな男性アナウンサーが、よくしゃべる料理人の女の指示を受けて神妙な顔をして豆腐を切っている。
「これでいいの」
「うん。Eテレは世界の基本だ」
 ホシイはおおげさだなと笑って、タオルをひっかけ出て行った。
 ひとり缶ビールをあける。見渡すと、この部屋には冷蔵庫もない。本当に長くはいないつもりなのだろう。今度はどこへいくのか。
 膝をついて窓ぎわにおかれた本をみる。英語、スペイン語、フランス語、中国語、ハングル語の辞書。『エクリプスの原理』『第三種ブリオンと突然変異』『有機化合物限界論』『可塑性物質の転移現象』といった意味不明の厚い本。グレイの本が目にとまる。外国人の詩集らしい。
 目のはしで白いものが揺れた。
 ぎょっとして横目でみると、ホシイの椅子の背から白衣がずりおちている。
 私は本を戻し、白衣を椅子の背にかけなおす。白衣は着こんでいるらしくやわらかい。顔を近づけても、薬品とかホシイ自身のにおいとか、そんなものはなにもなかった。白衣を着るホシイはみたことがない。ホシイはなにを研究してるんだろう。ワクチンってなんの比喩。男の子の戯言をホシイにいうべきか、まだ迷っている。

「いろいろ考えてみましたが」
 口火をきったのは私だった。もう何本も缶ビールがあいている。
「ひとはいらくらるものです」
「おまえさ、舌まわってないよ」
 ホシイは酒が強かった。肩にタオルをかけて、シャツとジャージでくつろいでいる。
「ひとは、いなくなる」
「先輩のこと?」
「そう。そしてすべてのいなくなったひとのことっ」
 近所の老夫婦も、職場のチーフも、姿を消したかつての男も、みんないなくなった。ぷっつりと切れた。
つきっぱなしのテレビでは、スペイン語講座をやっていた。
 ドンデ バ?
 どこにいきますか? くりかえしいってみましょう。続けて。
「ようするに」とホシイはいった。
「とつぜん人が消えるって、よくあることってわけか」
「そうそうっ。ホシイが引っ越したって聞いたのはあとの話で、あたしには消えたのと同じだった。こんなふうに」
 テレビのチャンネルを次々に替える。ドラマ。ニュース。バラエティ。  次々とうつる画面の中のひとびと。とぎれる会話。たしかに少し酔っている。
「私がいいたいのは、プラスチカのこと。てかホシイのことっ」
白黒のテレビ画面は異国のどこかをうつしていた。大勢の人が空を見上げている。ギターを手に歌う人もいた。サングラスをかけた若い男が興奮ぎみになにかいっている。
「ホシイはなんで信じてるの」
「プラスチカを? 信じてるわけじゃない」
「でも気にしてる。いなくなったひとの行方よりも。図星でしょ」
ホシイの目線は、テレビや吸殻やつぶれた缶を流れ、やっと私のほうをむいた。
「ひなたは、プラスチカの話を正しくいえるか」
「え」
「プラスチカは、人間が突然プラスチックのかけらになる、一種の病気だ」
「そういう設定だよね。あと、うつる、とか」
「そう。ウイルスで感染する」
「え」
「知らなかったろ。ウイルスでプラスチカはうつるんだ。このウイルスは海の底から発生した。降り積もった地球の残骸から、自然発生的に。だからどこでも起こりうる」
「それから……たしか、プラスチカするのは大人だけ」
「違う。発症は大人になってからというだけ。ウイルスの潜伏期間は長いんだ。だから子ども時代にウイルスに感染すると、いつかは発症するかもしれない」
 ホシイは一言も澱まずに、すらすらと続けた。
「プラスチカの発症はほんの数十秒間。ウイルスがひとの分子の結合をほどき、すぐに高分子化合物、プラスチックに再合成する症状だ。このとき熱を帯びたプラスチカ・ウイルスが飛散して、接触または空気感染で広がっていく。プラスチカしたひとは、鋭角のないイレギュラーな立体になる。体積は70分の1以下。しばらくすると、熱が下がりただのプラスチックのかけらになる」  
「ホシイ。ちょっと」
「この病気が救われないのは、発症してプラスチックのかけらになっても、誰にも知られなければ、ただのゴミとして処分されてしまうことだ。それと」
「まだあるの」
「目の前でプラスチカして息絶えていくひとをみても、なにもできない。うつるから触れることも抱くこともできない。たとえどんなに大切なひとだろうと」
 テレビの画面がぶれ雑音がはいる。ホシイは慣れたようすでテレビをとんと叩いた。音が蘇る。
「ふ。すごい。詳しすぎる。中国の彼のレポートで?」
「ふつうはここまで誰も知らないよ。知るわけない。だって」
ホシイはサキイカを手にとり、なにがあるのかじっと見る。
「プラスチカは、おれが考えた話だから」
 はい?
 ホシイはもう一度いった。
「おれのつくり話だ」
 あの浜辺で奇妙な魚をみたとき、子どもだったホシイはひらめいた。そして転校するたびにプラスチカの話を友だちに話した。友だちはおもしろがって聞いていた。そしてまた誰かに伝えた。プラスチカの話は尾ひれ背びれをつけて、あっという間に広がった。ホシイが思っていたよりも早く広く長く深く。
「それこそウイルスみたいに広がったんだ」
 おおっ。
 砂漠の人々から歓声があがる。画面がかわりスタジオの風景がうつる。モニターに身をのりだす司会者やタレントたち。
――ご覧ください。はじまりました。衛星生中継でお送りしております。
 黒い太陽が欠けていく。
「じゃあホシイは、ううん、ホシイだけが完全な嘘だって知ってる。なのになんで?」
「怖かった。あいつのレポートがまっとうだったから」
「妄信的狂信的恋愛至上主義者の?」
「ひどいな。あたってるけど」
 ホシイはサキイカを噛まずにのみくだした。
「あいつはプラスチカを証明したんじゃない。その可能性が決してゼロではないと証明した。行方不明の理由としては最低ランク。でも、プラスチカ自体は0・000001パーセントの確率かもしれないけど、おこりうる、ってね。おれがおもしろ半分に広めた話がみるみる広がっていく。それだけでもこわいのに、それが真実だとしたら」
 赤みがかった目で私を見つめる。
 もしや。
「ねえ。プラスチカの瞬間を見たの?」
 ホシイは少し引くと、「ああ。いや、違う。わからない」とつぶやいた。
 中学のとき、朝になっても母親が起きてこなかった。弁当だけは欠かさず作ってくれているのに、と母親を起こしにいったホシイは、母が寝ているはずの布団が空気をぬいたように膨らみがなくなり、へたりこんでいくのを見た。
 母さん?
 何かが起こったとわかった。
 おそるおそる布団を開くと、赤く、いびつな丸い球があった。
「それが、この赤いビーズ?」
 手首に揺れるビーズを示す。
「そう。あ、でも大丈夫。むしろ安全なんだ。ワクチンというか、プラスチカしたものを身に着けていると、耐性ができてプラスチカを予防する」
「それもホシイが考えた?」
「そうだよ。だから、ひなたに持っていてほしかった。万が一に備えて」
 ホシイの両親は、あまり仲がよくなかったとあの頃も聞いていた。その前に一緒に暮らしていた男の子の引き取りをめぐって、両親が言い争っていたこともホシイから聞いている。ある日とつぜん、すべてを捨ててどこかへ行きたいとは姉もよくいっていて、実行にうつすひとの割合は、荒唐無稽なプラスチカになる可能性より高いだろう。
 でも、ホシイはずっとおびえていた。
 北の浜辺で瀕死の魚に出会い、思いついた話が真実になったのではないかと。
「お母さんはそんなプラスチックに触れたわけじゃないんでしょ」
「触れてない。でもおれが話をした。おもしろがってたよ。たまにネットでも、そんなのを見た人がいる。でも言っている本人が信じてない。なにかのマジックか、精神状態が悪かったんだろうって」
 ふつうはそうだろう。
「言霊かもしれない。噂のエネルギーがおれのつくり話を真実にした。ネットでどんなに広がってもそれは真実にはならないけど、人から人へ、生の言葉で伝えるとカタチになるんだ、としか思えない。だとしたら、おれこそ」
 ホシイは顔をそむけた。横顔にテレビの青い光が反射して流れていく。
「最初の感染源だ」
「ホシイ。しっかりしなよ。自分でつくった話だっていったじゃない」
「だから怖いんだよ」
「ありえないっ」
 ちゃぶ台に転がっているプラスチックスプーンをパキンと折る。
「人間がプラスチックのかけらなんかになってたまるか。だったらあたしの前から消えたひとは、みんなそうなったわけ?」
 ホシイは私の剣幕にのけぞった。
「みんな勝手に逃げたり出てったりしたんだよ。あたしがどんだけ待っても、今度はちゃんとやれるって思っても、そんなことお構いなしに。チャンネルかえて違う番組にいったんだよ。事故かもしれないし事件にまきこまれたかもしれない。名前を変えて暮らしてるのかもしれない。ただ引っ越して違う暮らしをはじめたのかもしれない。記憶喪失になってたりホントはどこかのスパイだったり異星人やタイムトラベラーだったり。死んで生まれ変わって犬や猫や象やイタチになるかもしれない。でも、わかってるのはただひとつ。ひとは突然いなくなる。ただそれだけ」
 もうとまらない。なんでわからないんだろう、こいつは。
「誰かが突然いなくなるなんてもううんざりだけど、どうしてかなんて知りたくもない。手の届くちっこい範囲だけど、その程度しかわからないけど、あたしの前にはホシイがいる。それで十分。ほんとは十分じゃないけど、そういうことにする。ホシイが望むなら地球上のコンピューター全部と戦ってもいい。あたしはプラスチカなんか知らない。あたしが知らないものは存在しない。だから、ないっ。ホシイはっ、あたしと中国人の彼とどっちを信じるっ」
 ホシイは巨人でもみるかのように呆然と私を見上げている。
「なにっ」
「ふけば」
 首にかけたタオルを私に渡す。顔がぐしゃぐしゃに濡れていた。
 場違いに騒々しい音楽がテレビから流れた。
 日食のショーが終わった砂漠で、賑やかにはしゃぐひとびとが写されている。日本人の家族連れや若いひとのグループもいて、テレビに向かってⅤサインを送っている。
「あ」
「あ」
 私とホシイは同時に口にした。
 やせたハリガネみたいな男が外国人の男と笑っていた。真っ黒なサングラスに、魔女のような黒い帽子。アメコミのキャラクターTシャツの袖を破って着ている。首すじに髑髏のタトゥー、耳にはピアス。派手な色彩のプラスチックの輪がじゃらじゃらついている。
「先輩」
「いる。地球の裏側にちゃんといる。ほら、プラスチカなんてしてない。これが真実。プラスチカなんてないんだよ」
 ホシイの肩がぶるぶる震えている。みると笑っている。
「ひなた。すごいなおまえ、神様みたいだ」
 ホシイは目のふちを拭きながら笑っていった。
「そうなんだよ、実は。見直した?」
「ああ。おまえのいう通りだ。悩んでも意味がない。今を生きる。正しいよ」
「そんなこといったっけ」
「いった。こうしろって」
 ホシイは私をひきよせキスをした。しっかり舌までつっこんできた。
 顔を離すと、ホシイの目がまだ笑っている。
「ひどい顔してんな」
「うるさい」
「それにしてもあの野郎。心配かけやがって」
「してなかったくせに」
 ホシイはプラスチックの輪を革紐ごと窓の外に放り投げた。革ひもは暗闇の中を舞い、中庭の銀杏の木の枝にひっかかる。
 ホシイはおもむろに私のシャツに手をいれる。
「待って。その前になんかいってよ」
「やろう」
「じゃなくて」
「したいです。ずっと我慢してました。お願いします」
 ホシイは手をのばして、電灯の紐を引く。部屋の中にはテレビの青い画面だけが残る。
「プラスチカは、このための手のこんだ段取りじゃないよね」
「やめてくれよ」
 ホシイのキスは海の味がした。
 しみついた故郷のにおい。遠く浅い波間をうつむいて歩くこどものホシイ。
 理不尽な別れが物語を産んだ。新しい土地でなじむための処世術として空想を重ねた。それが広がり、ずっとホシイを苦しめていた。
 ひなた。
 彼の声。骨ばった肩。熱い舌。冷たい指が私を開く。脈うつ細胞の動きが幻惑をおいやる。私たちはこんなにも大人になった。もうあの海の色はだせないだろう。一度変わったら、もう元には戻れないのだから。
 でも、悪くない。
 ホシイはゆっくりと幾度となく引いてはおしよせ、私の中であふれた。

 薄く目をあけると、汗ばんだホシイの背中が軽く上下しているのが見えた。暗くなった部屋に窓枠の形で白っぽい外の光がさしこんでいる。
 窓を細くあける。たぶんもうすぐ夜があける。中庭の木にはまだ革紐がひっかかっている。
 そっと服を着ていると足首をつかまれ、飛びあがるほど驚いた。
 ホシイが半身おこして、赤い目で私を見上げている。
「帰る?」
「うん。仕事しなきゃ」
 ホシイは、首をふりながら立ち上がった。
「送ってく」
「平気。寝てていいよ。疲れてるでしょ」
「いいから」
 ホシイはてきぱきと着替え、ジーンズのポケットに煙草とライターをおしこんだ。
 外はまだ薄暗く住宅街は静まりかえっていた。
 川沿いの遊歩道に入る。あたりは細長い緑地帯で、ときおり犬の散歩をしたりランニングをしているひととすれ違う。
「知ってた? 私んち近いよ」
「どこ」
「みえる? あの鉄塔」
「あそこか。高いな」
「なわけないって。その裏手のアパート。この公園をつっきればすぐだから。ここでいいよ」
「いやもう少し」
 ホシイは雑木林の裏に引き寄せ長いキスをした。
「今度おれがいた町にいこう」
「海辺の?」
「ああ。泊まりで」
「いきたい」
「よかった」
 吐息のようなホシイの声。
「一緒にいきたかったんだ。おまえが考えてるより、ずっと前から」
 もう一度小さくキスをすると、ホシイは煙草とライターをだし、いけよというふうにあごでしゃくる。私は小さく手を振って歩き出す。視線を感じる背中が熱い。ライターをカチカチいわせる音。そうだよ。一緒にいこう。あたしもずっと思ってた。
「ひなた」
 背後から声がした。
 振り向くと、ホシイがつらそうに両膝に手をついている。足元に煙草とライターが落ちている。
「ホシイ?」
 ホシイは手で制して叫んだ。
「くるな!」
 荒く息をしてゆらりと身をおこす。
「もし、おれが……たら」
 ぐわんと周囲の空気が揺れる。ぶれる視界。
「さわ」
 ホシイがいたはずの空中に、青白く四角いものが浮いている。
 半透明の真珠色の表面には、細く赤い幾筋もの線が次々と浮き上がり、ほんのりと光りながら震えている。丸みを帯びた立方体。
 プラスチックの。
  
 まさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさか。

 プラスチカ!

 ホシイは何か伝えようともがいている。まだ自分の異変にすら気づかずに。私が見えているのか。一歩も動けない私が見えてしまっているのだろうか。
 脳みその中の神経がはれあがって破裂しそう。たぐれ。記憶の渦をたぐれ。
 私をからめとるホシイの腕。木の枝のカラフルな輪。USB。岬の廃墟。色とりどりのプラスチック。どれ? どこにいけばいい? 喫茶店。戻ってきた海の絵。赤いビーズ。
 それから? 
 干潟。子どもたち。小さな手がのびる。あの声は?

 ――さわっちゃ、だめだよ。

 深海魚から流れ込むメッセージ。ウイルスからの警告を彼は伝播する役目を与えられた。自分ではそうと気づかないうちに。
 四角いプラスチックは宙に浮いたまま動きをとめた。薄く発光していた真珠色の表面ははみるみる精細を失って、ことりと地面におちた。ホシイがおとした煙草とライターのそばで、何度かはずんで、草むらの中でとまった。
 熱が遠のく。緑の羽虫が物体にとまり、すぐに飛び去った。
 そっと手で触れる。つるりとしたただのプラスチック。ホシイだったはずがない。そんなこと絶対ないのに。
 一緒にいこうっていったのに。
 ごめんごめん。ホシイごめん。
 あたしホシイにさわれなかった。
 さわれなかったんだ。

        ×    ×    ×


 君がこの海辺の町にきたのは、いてついた真冬のさなかだった。
 ぼくはひと目で君が、彼のいっていたひとだと気づいたよ。
 事務所が移転したばかりで、落ち着かない場所しかなかったけれど、身体にさしさわりはなかっただろうか。
 縁あって、この町の自然保護センターで働くことになり、君にあの干潟を見せることができたのは幸いだった。
 君が届けてくれたUSBは大切に保管してある。あのときもいったけれど、ぼくはその方面の専門家じゃないのですぐにデータは読みこなせないと思う。でも、いつかはきっと役に立つはずだ。
 段ボール箱だらけの狭い応接室で、君は彼をとりだした。なぜか前よりも少し小さくなっていると、いとおしげになでながら。
 そうなんだ。あれは、次第に小さくなる。そのことも彼は経験的に知っていた。
 あの最後の浜辺のことは覚えている。
 彼はいつものようにぼくの手をひいて海辺につれていってくれた。
 ぼくがおとなしかったというのは嘘だよ。目を放すとすぐにどこかへいっていなくなる。そんなやんちゃ坊主だった。ぼくを探してつかまえるのが彼の役目だったけれど、あの日の彼はぼくを好きなだけ走らせてくれた。あの日が最後だと知ってたんだろう。
 あのときの魚の記録は残っていない。でも確かにぼくたちは、見た。
 ぼくがはしゃいで魚のまわりを走り回っているとき、彼は魚の口もとにしゃがみこんでいた。そうして急に立ち上がって海を見た。遠い、海と空のあいだをじっと見ていた。まるで何かに耳をすましているかのように。
 ぼくが彼のそばにきて、まだ動いてる魚のえらを触ろうとすると、叱られた。
――さわっちゃ、だめだよ。
 いったのは彼だった。
 そんな強い口調ははじめてだったから、よく覚えてるよ。それからすぐにやさしく「忘れんなよ」といった。泣きそうな声だった。
 それが、彼といた最後の記憶だ。
 その後、彼がぼくを捜し出して、ぼくたちは何度か手紙でやりとりをしている。彼はなぜか一度も会おうとはいわなかった。
 プラスチカについて、いくつかの事例を彼はぼくに伝えている。そのなかには、残念ながら彼のお母さんの話も入っている。君が手首につけていたそれだ。最初はもっと大きかったはずだけれど。そのときのことも彼は書いていた。彼は、知っていてもどうすることもできなかった自分に苦しんでいた。彼はだから、君のことも理解しているよ。
 ぼくのいうことは気休めにしかならないけれど。
 そういうと、君は涙ぐんで微笑んだね。ぼくの声が彼に似ているといって。
 彼は、あの日から誰かと深く関わることをおそれていた。できれば君だけは巻き込みたくなかったんだと思う。でも結果的に彼は、すべてを君にたくしてしまった。彼はとほうもない嘘つきだったけれど、正直にしか生きられなかった。
 プラスチカ。
 ほんとうにあったんだろうか。今もあるんだろうか。
 今のこの世界さえ、彼のもうひとつのつくり話なのかもしれないのに。
 君のいうとおりだと思うよ。ぼくたちが世界について知っていることは、ほんの少しでしかない。とりわけ未来なんて誰にも予測がつかない。不思議なことに、大人になり、多くのことを学び、知ろうとすればするほど、本当の未来からは遠ざかっていく。
 でも君は、それも悪くないといった。彼と出会えたのだから、と。
 そういう君を彼は愛したんだと思う。
 雪でおおわれた道を身重の身体でしっかりと立ち、まだみぬ未来へと歩き出す君。

 ぼくの勘違いじゃなければ、君はとても幸せそうだった。


                            END.

(タイトル画像を「みんなのギャラリー」からお借りしました。Thanks.)


  

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