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【千年とハッ】稽古場レポート③河野咲子(作家)

いよいよ12月に本番を迎える『千年とハッ』。稽古場レポートの第三回目は、作家の河野咲子さんにいただきました。

 「千年とハッ」稽古の見学中、えもいわれぬ声が聞こえた。
 ひそかに驚いて、肩がぴくりと動いてしまう。さほど大きくはない、優しいといってもよいほどの声なのに、それはわたしのからだをひとときばかり脅かすような気がした。脅かされたと思ったのはほんとうに一瞬のことで、慣れてしまえばむしろ慕わしいような声だった。
 「人間の鳴き声」の呼び交わされるシーンがあり、自分は偶然そのシーンの稽古に居合わせているらしいということを、わたしはしだいに理解してゆく。11月22日火曜日、公演本番まであと3週間足らず。「千年とハッ」の全体の流れはおおむね決まり、稽古ではそれぞれのシーンの細部が擦り合わされているところだった。
 ヴォーカリストのあおいさん(田上碧)が、とある日の井の頭公園の情景をあらわしたスクリプトを口にする。歌人でありダンサーでもあるはるかさん(涌田悠)は同じ空間で踊りながら、同じ情景を下敷きにした短歌の断片をくちずさむ。上演の全体においてはくっきりと役割を異にするふたりが、「人間の鳴き声」のときには声においては互いに漸近し、どこにも存在しない動物のごとき声を放擲する。
 それにしても「人間の鳴き声」とはいったいどういうことだろう。ごく一般的な定義に照らせば「鳴き声」とは人間ではない動物の声のことを指すのだから、「人間の鳴き声」だなんて語義からして矛盾しているというのに。

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 わたしが驚いたままでいると、はるかさんは——涌田悠は、この公演のために詠まれたひとつの短歌を引きながらその声のゆえんに触れた。

ヒトトトリトヒカリのあわいを往き来して 声はあなたのうつわのかたち
〈雨の公園〉①/涌田悠

 〈声はあなたのうつわのかたち〉——すなわち声は身体の延長にあり、身体とおなじようにかたちや手ざわりを持つものであると。だとすれば「人間の鳴き声」とは、意味に先行して身体ないしは〈うつわ〉が鳴らした声であるといえるだろうか。舞台の上で複雑に関係しあう涌田の身体の動きと発声を受け止めれば、その実感は率直に理解することができる。涌田においてダンスと言葉は混淆し、空間における声はその肌から吸い込まれ、肩やおなかのなかで素早く攪拌され、そして喉から解放されて舞台のうえを循環してゆくかのように見える。
 それと同時に、わたしはこの歌を(かたくなに)字義通りに読んだときにふくまれる矛盾のような語の関係に困惑し、心惹かれもするのだった。〈声はあなたのうつわのかたち〉。「声」が「かたち」であるという撞着したテーゼをそのまま理解しようと試みればどうなるだろう。オシロスコープで波形をとりでもしないかぎり、目に見えるかたちを声にみとめることはできないというのに。

 〈ヒトトトリトヒカリ〉。この歌の初句からつらなる文字列において、意味のうえではたがいに近いものではありえない「人」と「鳥」と「光」とが音の粒に解体・並置され、確かに「似ている」ものとして、そのユーモラスなシニフィアンのかたちをはっきりと露わにする。そのときわたしは、象徴という問題含みの機能をまだ帯びてはいない始原のことばのかたちに触れたかのような心地よい錯覚をおぼえる。〈ヒトトトリトヒカリ〉。縦のラインと横のラインが子どもの落書きのように組み合わさったかたちが、あるいはそれを舌に乗せて発語にしたときにあらわれる音の響きが(とりわけ「トトト」という音の連続が)まったく異質であるかに思われた存在を引き合わせ、三者は〈あなた〉として重なり合ってゆく。
 この状況において共鳴しているのは理解されたあとの意味や質ではなく、それに先んじてただ識別された「かたち」あるいは表象そのもののほうである。表象が表象であることを半ば諦め、意味のことを置き去りにした〈かたち〉に声が賭けられるとき、〈あなたのうつわ〉とは記号=表象「それ自体」のことを指すともいえるだろう。声はあなたの「記号」のかたち。

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 記号=表象は「近い」意味作用と「遠い」意味作用をともに特性として併せ持つものだと思う。あらわす意味と記号のかたちが近い(似ている・関連している)ものもあれば、遠くかけ離れているものもある。わたしたちが日常的にもちいているのは「遠い」ほうの記号、すなわちかたちと意味がほとんど恣意的に対応し、その無作為の規則を把握しなければ理解できない言語が大半である。よく言われるように「赤」という記号が赤色をあらわしている必然性はほとんどない一方、擬音語などにおいては——たとえば「ニャーニャー」とか——そういった音のかたちをもつことの理由や実感がある程度みとめられる。あるいは古典的な肖像画に見られるような人物の表象は、実在するその人物にかたちが似通っている点で「近い」型の意味作用を強く持っている。
 身体と言葉のかたちを交歓させる涌田のダンスパフォーマンスが比較的「近い」ほうの特性を司っているのだとすれば、ヴォーカリストの田上においてはどちらかといえば「遠い」言葉がかなり明晰に機能している。井の頭公園を一人称の言葉によって少しずつ描写してゆく田上のスクリプトは、暗闇をその都度照らし出す懐中電灯のように断片的な景色をつなげつつ空間を立ち上げる。言うまでもなく、〈イノカシラコウエン〉という語については音も見た目も井の頭公園には「似ていない」。だからこそ田上の言葉は、吉祥寺シアターからそれなりに隔たったところ(歩いて15分はかかる)にある井の頭公園をがらんとした舞台に呼び寄せ、その光景をゆるやかに再=現前させることができる。じつはこのスクリプトはある日の井の頭公園を歩きまわりながら田上が即興的に収録した言葉をそのまま語り直しているのだといい(この方法論「見て呼ぶ」についてはこれまでのレポートに詳しい)、こうして隔たりは空間だけでなく時間軸にも及んでいる。
 あおいさんが——田上が自身の発話の仕方について説明するとき、「遠くから」という言葉をしばしば用いていた。たとえば「遠くから聞こえている状態をここでやっている」のだというように。わたしはまたそのことをすぐには呑み込めずに、しばし口篭ってしまう。「遠くから聞こえている状態」を「ここでやっている」とは ——田上は確かにそこで、わたしの目の前で発話しているのに、それがあたかも遠くから聞こえてくるかのよう﹆﹆﹆﹆に装っている、ということだろうか。このとき田上は意味のうえだけでなく、声のかたちそのものにすら技巧的に距離を偽装して、「遠く」に解き放とうとしているのだった。

 普段話しているとき田上と涌田の声色はまったく異なるのだが、はじめに述べた「人間の鳴き声」のシーンでは両者の声は非常に似て、だれが発声しているのかすぐにわからないときもあるほどだった。
 稽古場でふたりの声を聞きながら、わたしはずいぶん昔に読んだ人類学者エドゥアルド・コーンによる『森は考える――人間的なるものを超えた人類学』のことを思い出していた。この著作においてコーンは記号=表象の特性をひもときながら、それがあたかも人間の占有物であるかのようにあつかう人類学の暗黙の前提に異議をとなえる。ソシュールの言語学によって説明されるような象徴機能を有した構造的言語(わたしがさしあたりここで「遠い」意味作用と呼んでいたものに該当する)は世界に息づいている記号の一部分でしかなく、実際にはそれだけにとどまらない記号=魅惑するもの エンチャントメントの作用に世界は満ちているのだと。
 わたしたちは人間が鳴くことはないと思い込んでいるし、じっさいに人間が鳴き声をあげることなどめったになく、わたしたちの声にはその音のかたちとは無関係な恣意的意味が多分に含まれている。けれどもなにか別の意味をあらわすのではない、人間の身体の存在をそのまま「かたち」にした声があるのだとしたら、それはたしかに鳴き声としか言いようのないものになるかもしれない。いやそれとも、人間の鳴き声という理念型にきわめて近い、人間の鳴き声の「模写」をわたしは聞いていたのかもしれないけれど。
 ともあれはじめて「人間の鳴き声」を聞いたとき、わたしは「ひそかに驚いて、肩がぴくりと動いて」しまった——それはふたりの「鳴き声」が、そこになにか知らない生きものが存在しているのかもしれないという非言語的な危機感を(音のかたちと近接した意味を)、わたしの身体から引き出すことになったからだと思う。そこに「鳴き声」の主が存在するという事態は語られた「遠く」(井の頭公園)のものとして了解されるのではなく、声そのものと一体化した「近く」(舞台上)の側のリアリティをともなってその場に現出する。「近く」の言葉が「遠く」の言葉よりもすぐれていると単純に言いたいわけではない(わたしは小説を書くので、言葉の象徴機能にかなりの信を置いている)。ただ、わたしたちが舞台に向かうときぼんやりと感覚している臨場感だとか一体感といったような状態をもしも記号=表象の様態によって(部分的にでも)説明することができるとしたら、それは「近く」の記号作用が「遠く」の記号作用を超え出て前景化するときのことを指すのだろうとそのとき初めて思ったのだった。記号とその意味の距離が縮小するとき、わたしたちはそれが目の前にいるという事実を如実に認識せざるを得ない。意味は言語空間を抜け出し、物質的な記号と一体化しながらその場にそのものとして現前する。

***

 わたしの見学したパートでは、ヴォーカリスト・田上によるスクリプトの上演はおおむね台詞/おしゃべりの発声に近いものであったが、先日公開された向坂の稽古場レポートによれば「基本的にはしゃべっている田上の声は、たまに不意に歌う」ことがあるのだという。そして、言葉が歌になったとき「意味がわかるより前に、歌だ、と思う」と向坂は書いている。向坂のテクストをもとに、わたしはこの実感——しゃべりながらときどき言葉が歌になる様を想像してみることができる。
 言葉が節に乗って歌われているという事態も、「遠い」意味を「近い」意味が超え出るような局面のひとつなのだと思う。歌われている内容より、いまそこで「歌われている」という状態のほうが切迫してあらわれてくるようなことはだれしも経験したことがあるだろう。

 稽古の終わりのほうになって、「公演につかう曲が最近やっとできあがったんです」と言いながら、田上は真っ赤なエレクトリック・ギターを取り出してそれをアンプに繋いだ。
 そこでわたしが目にすることになったのはひとつのクライマックスとも言えるシーンであり、田上の歌声と涌田のダンスがつくりだす場の様相をここで言葉に表そうとしたところで、十全に説明し尽くせるようには思われない。レポーターとしてこの場に来たのだというのに分析することをなかば忘れて、わたしは歌と動きの氾濫に身をひたしてしまっていた。

 曲が終わったときわたしに残されていたのは言葉にしがたい身体感覚と、それから幾度も響きわたった「似ていく」という歌詞のリフレインだった。似ていく——似ていく——似ていく——ここまで書いてきたように、「似ている」かどうか、つまり言葉のかたちと意味のあいだの距離の問題は一連のパフォーマンスのなかでひそかに、しかし執拗に問われつづけていた。それだから上演がひとつの極大値に向かいながら、上演のかたちが上演の内容とぎりぎりまで「似ていく」(歌う身体・踊る身体の存在そのものがシニフィエとなる)のと同時にあざやかにリフレインする「似ていく」という言葉は、多重の手ざわりをともないながら空間を魅惑エンチャントする。

雨に 濡れればみんな似ていく
土に似ていく
葉っぱも枝も 石もベンチも
葉っぱも枝も 自転車も空も
葉っぱも枝も 土に似ていく
葉っぱも枝も 切った木も君も
葉っぱも枝も あたたかなあなたも
「土に似ていく」歌詞(一部抜粋)/田上碧

 あとになってこの曲の歌詞のひとつひとつを確認してみれば、たとえば上に引いたスタンザでは「似ていく」という状態変化がまずは意味的に、そしてそのあと声のかたちのレベルで引き起こされていることがわかる。〈石〉〈ベンチ〉〈自転車〉〈空〉が「土に似ていく」と歌われるときには、それらの言葉によって描写された井の頭公園の風景(石・ベンチ・自転車・空)が雨にけぶって土と色味が共有されてゆくさまが立ち上がる一方、ひるがえってそのあと〈切った木も君も〉〈あたたかなあなたも〉と頭韻のふまれた語がならんでゆくときに「似ていく」のは木や君ではなくてそれら語のかたち(キッタキ・キミ、アタタカ・アナタ)のほうでもある。このようにしてこれまで言語によってつぶさに構築されてきた井の頭公園の景色はぐらぐらと波打ち、言語のかたちをあらわにしながらまさしくこの場において継起する現象と「似ていく」。
 すべて「似ていく」こと、言葉のかたちと意味が、あるいは複数の記号のかたちがたがいに「近く」なること、そして声と身体と音楽とが重ね合わさることの生々しさと甘やかさ。
 曲中で〈葉っぱも枝も〉と歌われるときの〈ハッパ〉の音のかたちは、この公演タイトルであるところの「千年とハッ」に、そしてタイトルの元になっていると思しきフライヤーにレイアウトされた短歌に文字どおり共鳴している。「ハッ」とは息吹、おどろき、つまりはわたしたちの声/生命/身体の始原の音=声ではなかったか。
 コトノハニツキノハニヒフノハノキレテ。

言の葉に月の刃に皮膚の端の切れて一〇〇〇年後から手を振っていた
/涌田悠
河野咲子(かわの・さきこ)
作家・文筆家。第5回「ゲンロンSF新人賞」受賞。受賞作 「水溶性のダンス」が『ゲンロン13』に掲載。その他、幻想怪奇小説、SF、短歌、テクスト批評、現代美術評などを執筆する。旅の批評誌『LOCUST』編集部員。Spotifyにて第6期「ダールグレンラジオ」配信中。

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