【千年とハッ】稽古場レポート②向坂くじら(詩人)
吉祥寺シアターのけいこ場に伺ったのは十一月十五日。久しぶりの雨が降ったりやんだり、落ち着かない天気の日だった。到着したとき、出演のふたりはちょうど休憩中で、水分補給をしているところだった。
「千年とハッ」は、ヴォーカリストの田上碧と、「短歌を詠むダンサー」であり振付家でもある涌田悠による公演。休憩中のおしゃべりでも、制作のときも、ふたりがひんぱんに「あおいさん」「はるかさん」と呼びあう声が耳に残っている。独特な、やさしい距離感を持つふたりだと思った。共作は今回がはじめてであるという。協働して舞台を作りはじめるにあたってふたりがまずしたことが、Googleドライブを使った往復書簡だった。言葉によってまずつながり、それを肉体に翻訳していくような関係づくりが、あの絶妙な距離感の基になっているのかもしれない。ふたりのパフォーマンスにも、異なる言葉を翻訳しながら交わすことのおもしろみがあふれていたように思う。
稽古はまず、これまでに制作した箇所を通してつなげるところからスタートした。元になっているのは二種類のテキスト。涌田による短歌と、田上による「見て呼ぶ」の書き起こしだ。「見て呼ぶ」は田上の手法で、街を歩きながら目に見えたものや聞こえた言葉を、ときに詩の朗読のように、ときに歌として、声に出して「呼んで」いくというもの。即興的に生まれてきた声、本来ならその場かぎりで消えてしまうはずの声を、録音し、さらに書き起こすことで押しとどめる。今回のテキストは、共に井の頭公園を歩いてそれぞれが制作した。ふたりの手にはテキストをハサミで切り分けてコラージュのように貼りつけた台本があった。ふたつの様式のテキストの接地点を探して、さまざまな試行錯誤があったことを想像する。
場面は、ふたり並んで上を見上げるところからはじまった。なにか見つけて息をのむような沈黙。やがて、あ、あ、と一音だけの発声がはじまる。田上が発する、まだ意味になる前の音に、涌田の身体が呼応して動きはじめる。野性的であるのと同時に、どこか機械的な、コンピュータの演算のようにも見える。あ、あ、はやがて、あめ、あめ、へ発展していく。田上の「あめ」に応えるようにして、踊っている涌田も「あめ」とくりかえしつぶやく。やがて、涌田が「雨」ではじまる短歌を朗読しはじめる。そこではじめて、「あめ」は「飴」でも「天」でも「編め」でもなく、「雨」であったことがわかる。不確かでとても遅いふたりの交信に、観ている側も巻き込まれていくような感触がある。
続けて、田上が「見て呼ぶ」のテキストを読みはじめる。けいこ場の空間に重なるようにして、白鳥や葉っぱ、井の頭公園の風景があらわれ出す。階層の異なる言語表現が混ざりあっているのが楽しい。風景を言葉で描写したかと思えば、鳥の声の声帯模写がはじまる。聞き取れないけれども遠くでしている誰かの声、のような音もそのまま再現される。なにを言っているかはわからないけれど、風景の一部としてはまったく違和感がない。印象派の絵画を観ているみたいだ。かと思えば突然冷たい声で、看板かなにかの注意書きが読みあげられ、その異物感にぎょっとする。
そこにときどき、涌田の短歌が差し挟まれる。立体的な風景を短い断片にしてつなぎあわせる「見て呼ぶ」が面的に思えることに対して、短歌の一行は縦に長く、線を連想させる。流れていく風景に錨をおろしているようだ。踊りながら行われる短歌の朗読は、聴き慣れた五七五七七のリズムをやすやすと逸してしまう。すんなり結句まで下っていかないで、一首のあいだで何度も立ち止まったり、停滞したりする。短歌の定型が、肉体の重さや呼吸の拍に圧し負けているように見えた。はっとひらめいたような思いがする。そうか。身体は、言葉よりも遅いのか。
「遅さ/速さ」については、おもしろいお話も伺った。ひととおり通したあとの振り返りで、田上が「ここはたっぷり間を空けて」というと、涌田が「わたしのたっぷりではなくて、あおいさんのたっぷりですよね?」と返す。「あ、そうですね」「じゃあ、ここは、あおいさんのたっぷりで」ふたり台本にメモを書き込む。そのスムーズな合意が気になって聞くと、ふたりの体感のスピードはまったく異なるのだという。基本的に、田上のほうが早く、涌田が遅いらしい。パフォーマンス中もそうだし、井の頭公園で制作をしているときにも、いつも田上のほうが先に歩きだしたとか。異なる速度を持つふたり。そして、「そこが一緒だったら共作はできなかったかもしれない」とうなずきあう。
『千年とハッ』というタイトルの由来も興味深い。「千年という長い時間に対して想像力をはたらかせてみたかった」「千年先は、死んで、身体がなくなってからもまだだいぶある。まず身体がなくなって、次に言葉がなくなる。そのあとには、熱や、ふるえのようなものだけが残るのではないか」……と説明していただいた、その言葉のひとつひとつがすでに詩のよう。先にそう伺って、パフォーマンスを観ながら、なるほど、と勝手に納得していた。なるほど、身体は遅く、千年後へは届かない。言葉はそれより速いゆえにもうすこし先まで残り、そのように想像したときの、熱や、震えのおそるべき速度。
そういえばパフォーマンスの中で、あっ、歌になってしまった、と感じる瞬間が、何度かあった。基本的にはしゃべっている田上の声は、たまに不意に歌う。すると意味がわかるより前に、歌だ、と思う。そのとき、妙に納得感がある。これまで言葉たちはずっと、看板の注意書きの文言さえ、歌になるのをこらえていたのだ、という気がしてくる。それが、ああ、ついに歌になってしまった。そのあとに、歌われた言葉の意味がゆっくりわかってくる。それは、「鳩」であったり、「水」であったりするのだが、音が光に遅れるように、意味は歌に遅れる。その、わかる前の「はと」や「みず」の速さに、どうしようもなく惹きつけられる。歌もまた、熱や震えとともに、千年先まで残るものなのかもしれない。田上の歌は力強く伸びやかで、今そこに出てきた必然性に満ちていて、そう思わせる実体感があふれている。
パフォーマンスを終えたあとの振り返りは、パフォーマンスをしていた倍ほどの時間に及んだ。丁寧に言葉を交わし、ときに実際に動いてみながら、細部を作り上げていく。そのとき交わされる言葉もまたおもしろい。「このへんに鳩が来ていて、違う声の鳩とすれちがう」「空はつながっているから、あっちを見ていても大丈夫」そんなふうに、詩的なイメージの持つ論理に身体で従うようにして、流れを作っていく(涌田はこのことを、「世界に振り付けられる」と表現した)。相談していた動きが決まったとき、田上が「ちょっと居心地がよくなってきた」と言ったのが印象的だった。ふたりはつねに広い世界のほうへと手を伸ばし、その中に自分の居られるわずかな場所を探し当て、たぐりよせているように見えた。
この日の最後には衣装合わせも行われた。衣装を担当する「KAKO」の桑原史香がけいこ場を訪れて、実際に生地や服を合わせながらイメージを検討した。「できるだけ説明的にならないように」という桑原の言葉が耳に残っている。
肉体の言葉、歌の言葉、短歌の言葉。意味の言葉、イメージの言葉、音だけの言葉。『千年とハッ』のふたりは、ばらばらの速度を持ついくつもの言葉を束ねて、ひとつの舞台を作ろうとしている。それも、加工しないばらばらのまま、手で花をがさっと集めるようにして束ねてしまう。その軽やかさ、そして果敢さに、うっとりと見惚れてしまった。それはまた、異なる二者が共に作品を作っていくことそのものの原始的な魅力でもあった。異なるにもかかわらず、共に作ることができる。いや、異なるからこそ、共に作ることができるのだ。
〇『千年とハッ』上演は12/8・11の二日間。
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