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【千年とハッ】レビュー・川野芽生(作家)

『千年とハッ』の上演は無事に終了いたしました。ご来場の皆さま、関係者の皆さま、ありがとうございました。
上演映像の公開に合わせて、作家・歌人の川野芽生さんのレビューと、公演写真を公開いたします。劇場でご覧いただいた方も、映像でご覧になる方も、どうぞお楽しみください。

歌とダンス(と短歌)を観に行くのだと思っていた。
けれど——涌田さんがステージの上をゆっくりと歩き、あるいは立ち止まる。ダンスはもう始まっているのだろうか、とわたしは思う。ただそこに立っているだけで、踊りに見える。
田上さんの声が、ごく自然に語りかけるように歌を歌い、歌うように話し、話し言葉はまたいつの間にか旋律に乗っている。いまのは歌? とわたしは思う。いつから歌になっていたのだろう。
どこまではダンスでなく、どこからがダンスなんだろう、どこまでは歌ではなく、どこからが歌なんだろう。そう考えて気が付く。その問いには意味がないと。これは全部がダンスであり歌なのだ。すべての動き(と静止)が踊りなのであり、すべての音(と静寂)が音楽なのだ。
「歌」と「ダンス」という概念そのものが自分の中でゆらぎ、生まれ変わっていくのを感じる。
何かを「する」ことよりも、「在る」ことの方が表現されているのだと感じる。
「在る」ことを見せられている、存在そのものが歌になりダンスになっているように感じられる。
音は発せられた瞬間に消えていくし、動きも後には残らない。それらの器である身体も、百年もせずに消え失せることが約束されている。公演のタイトルに冠せられた「千年」の後には。
あとかたもない。
ことばも、千年後にはまったく異なるものになっているだろう。百日紅、ということばはまだあるだろうか? 日本語という言語を用いる集団は存在するだろうか? ことばを操るいきものはまだ滅びていないだろうか?
ものは。百日紅の木はまだあるだろう。この一本の木が枯れて、百日紅という名前が原型を留めなくなっても、百日紅という種はあるだろう。あるだろうか。絶滅しているかもしれない。
突然変異を遂げているかも。環境が大きく変わっていたら? でも地球がなくなってはいないだろう。
千年というのはそんな時間だ。肉体にとってはあまりに遠くて、ことばにとってはぎりぎり遠くて、ものや種にとっては近く、天体にとっては一瞬。
そんな、千年という時間の前に、かろやかに立っているのがこのふたりだった。
遠からずなくなってしまう、でも今はここにある、からだを、ことばを、存在を、言祝いでいた。
時間と空間の中に必死に爪痕を残そうとするのでもなく、刹那的に消えてゆくのに任せるわけでもなく。
いまは、「在る」ということ。それを見せられたように思った。

写真:金子愛帆

ふたりが、劇場で目に入るあらゆるものをことばにしていくパートがある。スピーカーとか、床に貼られたテープとか、壁を走るパイプとか、天井を行き交う梁とか、舞台裏のなんかよくわからない備品とか、客席を飛び越えて、その頭上にあるはずの音響ブースにいる人とか。
舞台裏や、音響ブースは、客席からは見えない。でもたしかにそこにあるのだろう。客席から見えるものと、舞台上から見えるものは異なり、舞台上のふたりに見えるものもそれぞれ微妙に異なる。ひとりは見えると言い、ひとりは見えないと言い。しかしふたりの声によってひとつひとつのものが描き出されるとき、舞台から、舞台裏や、客席や、高い天井の奥深くの闇へと、世界は広がっていく。舞台という、演者を見せるためにある、無色透明な背景に、周囲から切り離されたどこでもない場所に、演者を見るために来ていたつもりだったのに、いま演者によって舞台という空間を見せられている。ここが決して、孤立した場所ではないことを。わたしは電車に乗って、歩いて、ここにやって来て、席に座って、ここにいることを。空間は連続していて、その連続性の中にこの場所はあり、ふたりはおり、わたしもいることを。
そして——いつの間にか、ふたりはいま目の前にないはずのものを描写している。自転車、鳥、看板、落ち葉、木、今はもう止んでいる雨の名残り。想像上の場所ではない。吉祥寺シアターから遠くない、井の頭公園であるらしい。
わたしの目には見えない井の頭公園を、ふたりは歩き回り、目に入るすべてのものを、手当り次第ことばにしていく。いまここにないはずの井の頭公園が、立ち上がってくる。
それは呪術的な言葉の使用だ。名前を呼べば、現れる。ひとつひとつ丁寧に呼んでいけば、散歩中の犬も、花壇を囲む柵も、通行人も、いまここにないはずのものが、過去に目にして、いまはもうないものや、遠くにあるものが、手繰り寄せられてここにやって来る。
「在る」ということ、「在らしめる」ということ、それが行われているのである。言葉はものを呼び寄せ、「在らしめる」力を持つ。存在の、言葉。
使われていたのは、あいまいなものをあいまいなままに汲み取る言葉で、定義する言葉ではなく描写する言葉であった。「幹がでこぼこしてて苔が生えてるなんか大きい木」みたいな言い方をするのである。
たとえば「ポプラ」とか、「樹齢○年の巨木」とかいった名前を使った方が、スマートだし短い言葉の中に多くの情報が詰まっているだろう。
それに対してふたりの使う言葉は、抽象化されたポプラ一般を掴み取るのではなく、目の前にある(ないはずなのに)一本の木——いや、一本の木としての全体像ですらなくて、でこぼこした幹の表面とか、色づいた葉っぱとか、湿り気とか、そういった個別の存在を、現象を、なぞっていった。
ただ一言でばしりと言い当てるような言葉では、取り零してしまうものがたくさんあるからだ。「井の頭公園」と一言で呼んだら、そこから多くのものが捨象されてしまっただろう。
それは、ものをソリッドに名指すのではなく、名前をもたないものたちをも引き連れてくる言葉だった。
そう言うと、あまりに濫用される「言葉にできない」とか「言葉を失う」といった言葉が思い浮かぶような気がする。
言葉にすることが存在物への冒瀆であるように見なされ、「言葉にできない」と言うことが最大級の賛辞として手軽に使われるようなことがしばしばあって、それは言葉への盲信に対する反動ではあるのだろうけれど、それはそれでまちがっているとわたしはおもう。
けれど、「言葉にできなさ」に安易に飛びつくような態度は、言葉の万能性への信仰と同じくここにはなくて、言葉と、言葉にならない本質、といった対立もそこにはなかった。
言葉は、空気をたっぷりと含んだお菓子のように、言葉にしきれないものたちを抱え込んでかるくやわらかに匂い立っていた。

写真:金子愛帆

言葉も、ひとつの存在物として肯定されている、ということのように思う。
言葉と存在、言葉と身体が対立させられるのではなく、身体と同じように儚く崩れ、千年後には少なくともこのままではいられないだろうものとして、けれども、いまはここにあるものとして、言葉が言祝がれていたのだと思う。
ところで、短歌って何なんでしょうね。
すべての動きと静止が踊りで、すべての音と静寂が音楽なのだと言ったけれど、すべての言葉が短歌なのかというとそうではないような気がする。
涌田さんの口から重たい雫のようにこぼれたことばが、連なっていって、表面張力によってあやうく持ち堪えながら、短歌のかたちになるのを見ていた。
ことばの海の中に落下して拡散していきそうでありながら、まわりのことばとの距離を保って自身をかたちづくっているのが短歌だった。
ことばに短歌のかたちを取らせるのはどうしてなんだろうね。そんな謎もわたしの中に立ち上がってくるのだった。

川野芽生(かわの・めぐみ)
歌人・小説家。1991年生まれ。2018年に連作「Lilith」で第29回歌壇賞受賞。2020年に歌集『Lilith』を上梓。同歌集で第65回現代歌人協会賞を受賞。その他の著書に短篇集『無垢なる花たちのためのユートピア』、掌篇集『月面文字翻刻一例』。


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