最初のためいきを

「あぁ、これがペットロスなのか」
ふと気付いたのは春を目前にしながらも冬の名残りを感じる、そんな2020年の4月半ばのことだ。

2019年12月、愛猫を亡くした。
名前は「もも」。
猫を飼わないかと持ち掛けられたメールに添付してあった写真を見た時に「この子はももだ」と、ふわっと思った。ものの試しに、メールの主に名前は何が良いかと伺いを立てると、やはり「ももだ」というのだ。
僕と暮らし始める以前に保護してくれていたご家族からなんと呼ばれていたのかはわからないが、とにかくももはウチの子になる前から「もも」だった。
いろいろあった13年のニャン生の間に40を超えるあだ名が付いたけれど、最初から最期まで「もも」だった。
そして、今もこれからもずーっと「もも」だ。

冒頭にある通り、僕はペットロスの真っ只中にいる。鼻をすすりながらこの文章を書いているけれど、涙はなんとか堪えている。すすって、コラえて。
更にこうしてキーボードを叩いているのは生前にももが寝床としていた場所で、僕はももがいなくなってから1日も欠かすことなく、そこでスマホをいじったり、本を読んだり、たまにうたた寝をしている。
30代も半ばに差し掛かった大のオトナ…などと胸は張れないか。ともかく、そんな齢の男がプラ製の引き出しに積み上げられた寝具で成り立っている愛猫の寝床から、脚をプラプラと投げ出して、鼻をズビズビと鳴らし、時々ももの遺骨などが置いてあるタンスの方に首を捻ってためいきを吐きながら、今の心情を訥々と綴っている有り様。悲しいやら、悔しいやら、情けないやら…。
だがしかし、そんな醜態を晒しながらもあえて声を大にして言いたいことがある。

ももがいないという現実がこうして目の前にあることが、どうしようもなく辛い。

猫の飼育ガイドにある「猫の平均寿命は15年くらい」とかいう文言を読んで固めた覚悟には、ももとの死別によって穴が空けられた。
誰かが「猫は死ぬ時に、飼い主の心に猫のかたちの穴を空けていく」と言っていたが本当にそうだと思う。そして、その猫穴は埋まるどころか日々拡張されていく。
猫カフェにも足を運んだ、2度ほど。しかし、触れ合ったり無下に扱われたりするうちに、改めて自分に空けられた猫穴のかたちに気付くのだ。
「僕の場合、この猫穴を埋める術を持つ猫はももしかいないんじゃないか」と、気付くのだ。
そして、その術を持つ唯一の猫は、もういない。
そんなどうしようもない、底なしにも思える穴を抱えてしまった僕は、本当にどうしようもないことになりかけている。
こうして書き物をしたって猫穴はきっと埋まらないし、もものことを思い出して油断しようものなら目頭がジワッと熱くなって、あわや落涙といった具合。
ももがいなくなったばかりの頃、ためいきを漏らすくらいなら背中を押せるような言葉を口にしようと、何をするにもよいしょよいしょと言っていたこともある。
その「よいしょ」は次第に「よし」に変わったけれど、結局ためいきへと戻ってしまった。
そうして「寂しい。悲しい。どうしてももが、いないんだ…」というやり場のない気持ちはどんどん蓄積されて、猫穴をグイグイと圧迫していく。

そんな状態にありながらも、誰かの共感や慰めを求める時期はとっくに過ぎたことは、なんとなくわかる。
いまはまだ、やり場のないためいきでもいい。仕方がない。
ただ、ずっとそうしてばかりもいられないというのもまた事実だ。
じゃあ、どうする。
僕はやはり、この猫穴と向き合うしかないんじゃないかと思った。
いつか「これから飼い主じゃない生活に戻らなければならない」という言葉で、ももに別れを告げた。
確かに、今の僕には飼い主としての現実的に果たすべき責任はない。が、ももが一生懸命に全うしたニャン生に悲しみばかりを見出しているのは、飼い主としてあるまじき姿なのではないだろうか。
そして、ためいきとは遣る瀬のない時だけのものではないことはももが証明してくれた。ももと共に過ごした13年間はためいきが出るほど、尊い。

最後に、これは僕がペットロスから抜け出すためのひとつの手段として考えている。なぜ今日始めたのかも気分というか、思い立ったからとしか言いようがない。
ただ、2020年はいろいろと新しいことに挑戦しようと宣言していた…気がするので、これもその一環として継続できればいい。
まずは悲嘆でギュウギュウになってしまった猫穴の整理として、もものことも、それ以外のことも思うままに記していくつもりだ。
そして、いつかポッカリと空いた猫穴を覗き込んだ時に、猫穴を空けていった張本猫もこちらを見てくれているような気持ちになれたら良いな、と思う。

これはその日に向けての、最初のためいき。

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