労働意欲は猫のかたちに

思えば2019年は多くの不運に見舞われた。
そして最初の不運は2月22日。奇しくも「猫の日」に起こってしまった。
この日、勤めていた会社が倒産した。
突然の失業は人生で2度目。だが、2008年のリーマンショック当時の失業に比べれば求人が潤沢だったことや、品質管理検定2級の勉強をしていたこともあって「勉強する時間が増えてラッキーと思えばいい」くらいに考えていた。
決して経営状態の良い会社ではなかった…というか、倒産するくらいなのだから当然悪かったし、そんな中でやりきったんだからと納得することもできた。

それから試験までの1ヶ月、ももに見守られたり邪魔されたりしながらみっちり勉強をして、無事2級に合格した。紆余曲折の2019年を経て、2020年4月現在ではなんとか職にもありつけている。
だが、心情を率直に申し上げるなら「正直、しんどい」の一言だ。
加えて、新型コロナウィルスの感染拡大による緊急事態宣言下という状況のおかげで、多くの皆さま同様に家に閉じ籠もるばかり。
「こんな時にももが生きていたならな、あれもこれも苦じゃないのにな…」と思わずにはいられない。そうして、猫という小さな生き物の偉大さに改めて気付くのだ。

「ももがいる」ということは多くの猫の飼い主にとって恐らくそうであるように、僕にとっても「働く」ということへの意欲の大部分を占めていた。
はっきり言って、ももは「僕以外にはまったく」と言っても差し支えないほど誰にも懐かない猫だった。
実家に出戻った頃は「まぁ、そのうち慣れるでしょう」と悠長に構えていたが、家族に向ける眼光の鋭さや当たりの強さたるや、多少の軟化はあったにしても(…と思いたいのは飼い主の欲目だろうか)ついぞ変わらぬまま逝ってしまった。にも関わらず、我が家の一員として迎え入れ、惜しみない愛情を注ぎ、何の因果か揃ってももを見送ってくれた家族には感謝のしきりである。
話を戻そう。とにかく「ももは僕がいないと生きられない」という凄まじい優越感と引き換えに、ももの日々の生活に必要なお金を賄うべく必死に働かねばならなかった。こうして文字に起こしてみると、紛うことなき猫の下僕であったのだなと実感するばかりだ。
それを鑑みて、ももがいない今、僕の労働に対する意欲は明らかに低下してしまった。
働くことそのものに嫌悪があるわけではないが、今まで動機を完全にももに投げっぱなしにしていた…つまり依存していたことに気付いてしまったのだ。
そして、それは容易に替わりの見つかるものではない。

とにかく、ももがいなくなってしまった今、僕は何に喜びを見出して働くことに向き合うべきなのかを考えなければならない。
いくつかの趣味や嗜好は持ち合わせているけれど、そのどれもが、もしくはそれらを一括にしても「ももがいる」という原動力の空白を埋めるには物足りない。
「そうか、猫穴はこんな所にも空くのだな」と思う。

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