【短編】インターネットを知らない彼女
僕の彼女は今どきにしてはめずらしくスマホを持っていない人間で、インターネットをまったく見ない。SNSでキラキラしている女子たちや、「バズる」なんてものには無縁で、話題の音楽や言葉、スイーツなど、ネットユーザーならばみんな流行りだと知っているようなことを彼女は全く知らない。
けれどネットを見ない分、彼女は様々な知識や文化に日々触れている豊かな人だった。道端でふと見かける植物や花の名前だったり、飛んでいる鳥の名前だったり、食材ごとの美味しい調理法だったり、心に残る本や詩などをよく知っており、その話を聞くたびにいつも感心させられる。僕がネットに尋ねる前に、彼女が丁寧に教えてくれるのだ。
流行りには疎い彼女なので、時々「ネットではこんなものが話題になっているんだよ」と教えてみたりするが
「それってイタリア発祥のスイーツだよね。婚約者に贈る習慣があるらしいよ。」
「ハイイロアザラシって研究では共食いも観察されたって図鑑で見たことがある。」
と、聞いてもいないことまで教えてくれる。ネットでその情報を見ていないにもかかわらず、僕より一枚上手な話を返されているようでなんだかモヤモヤした。彼女にとって流行っているという事実はどうでもよくて、話題に上がるもの自体の知識の方が重要なのである。僕が感じる「美味しそう」「かわいい」「面白い」といった単純な感情への同意を先越されてしまうのが、なんだか寂しかった。
彼女はネットを何も知らないのに、ネットを見ている僕よりなんでも知っているようで、それが素敵で羨ましくて、僕の感情は変に逆撫でられていた。
僕は彼女にネットをよく見せるようにした。初めはニュースやウェブ記事を一緒に見たり。そして休日には読書中の彼女の時間を少しもらい、2人でYouTubeやTikTokなどをだらだらと見る時間を作っていった。普段の会話の中にも、最近バズったものを話題に出すようにした。
今思うと僕は必死になっていたのだと思う。男の嫉妬心は女性の比にならないと聞いたことがあるが、まさか自分がそうなってしまうとは想像していなかった。これもいつの日かネットで知り得た情報ということも少し癪にさわる。
努力の甲斐あって、それから少しづつ彼女と僕たちの生活は変化していった。彼女もネットに興味が湧いてきたのか、はたまたその便利さに影響を受けたのかはわからないが、僕のスマホを覗きたがるようになっていた。そして2人で一緒にインターネットサーフィンをする時間も増えた。休日に彼女と足繁く通っていた図書館や博物館、美術館とはだんだんと疎遠になり、1日中家で過ごすことも増えていった。一見すると退屈な毎日になってしまったようにも思えるが、僕は彼女と隣あって同じ画面を見て、2人で同じ時間を共有しているというこの感覚が心地よかった。
ある日、ついに彼女はスマホを購入した。彼女自身のSNSもすぐに開始し、メキメキとネットを使いこなすようになっていった。一緒に居ない時間にもこまめに連絡が取れ、スマホでの会話は増えていったのは嬉しく思えたが、日常の会話は減っていってしまっている。お互いそれぞれのスマホを見るため仕方がないことだ。
彼女は僕の知らない間にネット通販で服を買うようになり、だんだんと見た目の雰囲気も変化していた。トレンドの服装や髪型、ネイルやメイクまで、「最近の女子」っぽくなっていた。周囲の人たちにも「お前の彼女、なんか変わったよな」とよく言われるようになった。確かに、とても綺麗になっているのだが、以前の彼女から感じられた自然体な凛々しさというものはどこかへ行ってしまった気がする。
僕たちは変わってしまった。いや、僕が変えてしまっていた。伝え合うのは画面の中から得た情報ばかりで、返事も単調なものになってゆく。だんだんと会話をすることもなくなり、どこかへ出かけもしないため会わなくなった。そして彼女からメッセージの返信もなくなった。
以前の彼女を思い出す。現実世界に溢れる様々なものに対し、自らの目で見て知り、自ら探求し、真っ直ぐな興味を注いでいた。美しい景色や美味しい食べ物を発見し、ゆったりとした時間の流れでそれを楽しみ好むのが彼女であった。ネットに翻弄されない世界を見つめ、豊かな生活を送っていた彼女に対する、僕のつまらない羨望と嫉妬が彼女を退屈な画面の中へ引き摺り下ろしてしまった。
彼女が居なくなってから僕はインターネットから離れ、彼女が見ていた世界に足を踏み入れた。
散歩に行き、ずっと暮らしているのに今まで見たことのなかった街の景色を知った。
図書館に1人で行き、たくさんの知識と様々な物語の世界に出会えた。
美術館に行き、絵画の美しい精巧さとお気に入りの一枚を発見した。
博物館に行き、歴史と技術の進歩に驚嘆した。
そして家では窓際で本を読んだり、たまに絵を描いたり、詩を作ったり、コーヒーを挽いてみたり、ヨガをしてみたり、ただぼうっとしたりと、のんびりと好きなように過ごす。
なるほど、これが彼女の感じていたものだったのか。情報がいっぺんに入ってこない分、1つ1つがフォーカスされ、興味深く見ることができる。そしてもっと知りたいという探究心も出てくる。彼女の豊かさを作っていたものに触れ、自分の窮屈さと後悔が再び押し寄せてきていた。
それから1年ほどが経ち、この生活にもすっかり慣れた。たまにはいつもと違う図書館へ行ってみようと、電車に乗って知らない街に向かった。ふと立ち降りた駅近くの図書館に入り、ふらふらと本を探していると、こどもコーナーに似つかわしくない洒落た女性が熱心に植物図鑑を見つめていた。外見は見知らぬ女性だが、図鑑を楽しそうに見つめる眼差しを僕は知っていた。僕は慌てて出入り口に置いてあるパンフレットを取りに行き、女性のもとへ戻った。
「あの、もう興味ないかもしれませんが、またご一緒に植物園なんてどうでしょうか。」
少し震える手で、僕はパンフレットを差し出した。
彼女は一瞬驚いた顔をしたが
「好きになったんですね、こういうの。」
そう言ってにっこり笑っていた。
「おわり」 作:新入社員
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