感じているフリはできない (前編)

80年代後半の松阪市はパンクスの街。女子校だった我が高校へ三年間通った街でもある。披露宴会場、公民館、ホテル、パチンコ屋や本屋の二階などで当時行われていたギグへワタシは迷わず出かけ始めた。

その街外れに『バンナイス』というディスコティックがあった。国道を降りて田んぼの景色広がる中にそびえ立つ白塗りの神殿はすぐ目につく。ローマのパンテオンのような建物が日本の田舎にあればラブホと間違える。

今も活動しているのだろうか『M-BAND』のライブの夜、その建物の入り口に並んでいた巨大な円柱の間に立ち、『ピンクハウス』の服を着たボブだった16歳の私を、『写ルンです』で撮ってもらった一枚が今も実家に残っている。

そのうち『アマラス』と店名が変わった。その頃にはお泊り先である先輩の家から抜け出して向かった。先輩の父上が寝静まった後、片方ずつ靴を手に持って、平日であろうが週末であろうが飽きもせず松阪のパンテオンへと辿り着いた。

そこへ遊びに来ていた常連のお姉さん達にはとても可愛がってもらった。彼女達の大半はワンレン、ボディコン、DCブランド派。誰もが非人道的な肩パット入りのドレスコードを身にまとい踊った元祖『パラパラ』。みんなハイヒールでどうやって足を痛めず夜通し楽しむことが出来たのかとある意味感心してしまう。

集まっていた人たちの中で少数派だったのは、えりこさんと小路口さん。このふたりは私の地元である鳥羽の先輩でバリバリの古着派だった。彼女らは大阪のアメ村まで出かけてヴィンテージを漁っていた。えりこさんの愛車だったエンジン音がデカいビートルでウチまで迎えに来てくれ、松坂までよく遊びに連れて行ってもらったものだ。

子供の私は強くもない酒の酔いに任せて踊り、ディスコ・ミュージックの洗礼をこの店で受けた。景気の良かった頃の日本特有の「何でもアリ」感大でごちゃまぜだった選曲。ディスコ以外にも、ユーロビート、ソウル、ファンク、ヒップホップ、ロック、レゲエ、ハウスなどがかかっていた。現在はもう「音楽差別」をしない自分が、今、ここへ踊りに行ったら、さぞかし楽しい場所に違いないと思う。

この頃は圧倒的に数少なかった「クラブ」。クラブもどきのバー『シックス』という小箱が、松阪の隣町である津市にあった。そこへ踊りに行く度、ダンスフロアはガラガラだった。そういえば2016年の初来札の際、踊り場で紹介された三重県人の男子がいた。同い年の彼は、私が遊びに行っていたのと同時期にこのバーで働いていたと言った。それにはさすがに驚いた。ヒトにはそれぞれに出会うタイミングがあるのだとそのとき実感した。

インターネットが無い時代、文化全般に関する情報に猛烈ハングリーだった私が多大な影響を受けた人がいる。その人というのは、名古屋のファッショニスタこと『デプト・ストア』の店長だったジョージさん。私の『未知しるべ』である彼のキテレツな感性も手伝って雑誌『キューティー』の出立ちに変身。でも当然のこと垢抜けしなかった。

栄のセントラルパークにあるランドマーク『テレビ塔』から歩ける距離の錦三丁目には子供専用の『スクール』というクラブがあった。そこでは、なんとキャリアをスタートさせたばかりの木村コウ氏がDJを務めていて、フロアを湧かせていた。錦四丁目にあったのはもう少し大人向けのクラブ『ダンスホール』。タイクーン・トッシュこと故 中西俊雄氏率いる『メロン』のライブを体感した現場でもあった。

ここまでに書いたダンスフロアでかかっていた曲のマイベスト10は下記の通り。
1 Let's Groove 1981 アース・ウィンド & ファイアー
2 Rock The Casba 1982 クラッシュ
3 It's Tricky 1986 RUN-D.M.C.
4 Got To Be Real 1978 シェリル・リン
5 Telephone Operator 1983 ピーター・シェリー
6 Give It Up Or Turn It Loose 1970 ジェイムス・ブラウン
7  Boom Boom 1987 ポール・レカスキ
8  If You Want Me To Stay 1973 スライ&ザ・ファミリー・ストーン
9  There Must Be An Angel 1985 ユーリズミックス
10 I'm Not In Love 1975 10cc

48歳から人生の本編スタート。「生きる」記録の断片を書く活動みならず、ポエム、版画、パフォーマンス、ビデオ編集、家政婦業、ねこシッター、モデル、そして新しくDJや巨匠とのコラボ等、トライ&エラーしつつ多動中。応援の方どうぞ宜しくお願いいたします。