バイブスとは

マンハッタンにある『フリードマン・ギャラリー』で1週間に渡って行われた実験音楽のイベント『ニュー・イアー・フェスティバル』へ参加し終えた後に書いてみる。

連夜集中して聴き入り、帰路へ着いたらその感想をフェイスブックに書き続けていた。そうして会期が終わったら、ドッと疲れが出た。ライブミュージックを観ている時というのは実は踊っている時よりもエネルギーを使っていると体感後にいつも思う。

目の前の歌手や演奏者達から直にくるマックス熱量。彼らの感情が音に乗って伝達されてくる。からだを動かしながらの体感なので、受け取ったエネルギーは蓄積されない。聴きながら同時に発散している状態。このフェスの会場がギャラリーの手前、座席が用意され、常に着席したまま。踊るコトなしで、強力なエネルギーを受け取りながら、処理、消化しようとした結果、ドーンと落ちた。

会期中には音楽の概念を覆されるような音を目の当たりにして「開耳」。最終日の夜に、出演アーティストであったフィル・二ブロックと画廊オーナーであるイーライとアーティスト仲間たちと一緒に、フリードマンの近所にある老舗のバー・レストランへと連れて行ってもらった。その名も『イアー』で、まさに「耳」の洗礼を受けた。

アタマに電球の光がオンした新たなマインドに自ら興奮したが、動いてなかった体内で「踊り虫」がムズムズしてきていたので、フェス明けの金、土にパーティーの予定を入れた。その二日間を加えると、今回は連続9日間に及ぶ「パーティー修行」。

10日目の日曜には「パーティー廃人」化確定。その覚悟を決め踊りに出かけた。週末のフロア天国での「音楽ハイ」から、心地よい疲労感に見舞われながら降りてきた。その心地が爽快で、以前から腑に落ちなかった「エネルギー」についてあえて直視した。


ある夜の踊り場でのことだ。決められたパターンの振り付けを抜群しなやかに踊っているダンサーがいた。その彼女に「エネルギーの空洞化」を感じた。他人に見られる為に「過剰した意識」。重ねた練習は完璧なのに、気持ちがまるで込められていないのはなぜ。思い起こさせたのは、小学生の自分が参加したピアノ発表会での棒弾き。

またあるパーティーでのこと。人の足を踏みつけ、私のあばらにエルボを与え、回転したまま全身で周りの誰かにぶつかっていくダンサーがいた。レコード屋を営み、音楽のうんちくを並べる彼。「一番の音楽愛好家」のうぬぼれ感がダンスにも絶賛反映中。

普段使っている言葉では、到底取り繕うことができないエネルギーが取り巻くダンスフロアとは神聖なる「別世界」。

さっきの自称ナンバーワン・ダンサーを見る度、気持ち悪くなった。「エネルギーののびしろ」が見当たらないからだ。バイブレーションとは生もの。下水のようなエネルギーなら臭ってもくる。ダンスの上手い下手の話をココでしていないのを分かってもらえるだろうか。ワタシは単にその人の踊り動く体からストレートにバイブスだけを感じ取っている。なのでワタシの前で踊るのを恥ずかしいとかは頼むから言わないで欲しい。だってワタシもダンスは決してうまくは踊れないのだ。


逆にあるクラブで、たいまつのように燃えたぎるエネルギーに遭遇したことがある。ダンスフロアの段差を軽く飛び跳ね、上がったり下がったりしながら入り乱れて踊っている数人がいた。時折、大きく目を見開きまばたきし、口を開けて歯を見せ笑ってみせた。彼らの動作は何かの動物をほうふつさせた。

たまに立ち止まり、常に背中や腰をクネクネする動きでフロア内外の広範囲を飛び回っていた。統一感が無いひとりひとり違うダンス。動きやその速度も音に合っているのかそうでないのか一瞬では分からない。でも心の目で見れば、全体のエネルギーに一体感が浮き彫りになった。何処かの『ダンス・トライブ』が集落へ遊びにきている模様。

このネコ科のダンサー達の踊っている最中、音に従って「けもの」になろうとする人の情熱にみた「野生の証明」。

今回載せた動画のネコは実におもしろい。卓上スピーカー前にいるネコに向け、低音が効いた音楽を流す内容だ。するとネコは後ろ足二本で立ち上がり、透明のボールでひとり遊びをはじめる。そのうち両方の前足先を器用に使って、目には見えないハズの振動する音をつかみ取ろうとする。イヤ、つかんでいるとしか私には見えない。その「感動」がとても興味深いのだ。ベースを捕まえようとするネコ科な動きがなんと豊かな表現なことか。間接のうごきが多少ブレイクダンサー。


最初に書いた自分を偽って踊る、または魂のない抜け殻ダンサー達にはみな共通点がある。それは、どんなに知識豊富で、滑舌、たいそうなキャリアで、隙の無いお洒落サンで、見事な振り付けのダンスをしていたとしても、いったん踊ってみれば一目瞭然。その人の頭デッカチで硬直したエネルギーがすぐ伝わってくるコト。

それと「クラブの浮遊霊」化している人に特有なのは、心と体がひとつになってないこと。その張本人の記憶の中にはたくさんのことが残ってはいないコト。その時、その場に居た大半の人々も、この「フロアの彷徨い人」の存在を覚えていない。弱いエネルギーを本能的に避けたか、波長が合う合わない以前のそんな希薄なエネルギにバイブレーションは波立ちようもなく、当然その相手にカスリさえもしていなかったシンプルな理由。

そんな浮遊霊だった私自身が、7年前にやっとレベルアップした。住み着いた家を栄えさせる「クラブの座敷童」になった。これぞ音楽を聴いて踊り、徐々に形成されていったバイブスのたまもの。ステイホーム中も他の自己表現方法でその「輝き」現在進行形。コロナウイルスが一段落ついて再びパーティーへ繰り出すとき、そこで自分が何を感じるのか。今からとても楽しみにしている。

48歳から人生の本編スタート。「生きる」記録の断片を書く活動みならず、ポエム、版画、パフォーマンス、ビデオ編集、家政婦業、ねこシッター、モデル、そして新しくDJや巨匠とのコラボ等、トライ&エラーしつつ多動中。応援の方どうぞ宜しくお願いいたします。