ホーム・スウィート・ホーム 〜 『ハッピー』で踊り地元を盛り上げる時

ようやくウチに帰ってきた
そんな境地に辿り着いている。

わが人生は40年以上の眠りから覚めた。この動画に出演したのはその頃。私の直感も捨てたモンでなかった。そんなコトにも気づき始めた。そう、自分を信じきれていなかったのだ。信じて行動に移してはみたが、実際にはまだまだ。欲しくない類のエネルギーを間違って手繰り寄せてしまう自分に落胆したり、半信半疑であるのも本音。私にとっての「家」とは決して居心地のイイ所ではなかった。この事実を最近になって初めて認められたことが発端で書いている。

大切なひとである主人と母のどちらも、もう私がどんなに良くても悪くても、手放しで喜ぶことをせず、でも放置せず、放牧育ちにしてくれ、遊牧もさせてくれている。逆の立場なら成立しない現実なので、これ有り難がらずにはいられない。ワタシを見て聞いていつも突拍子もないせいか、未だによく指摘され、あらかじめ本人達がガッカリしない防止策なのだろう、まず期待もされていない。それでも何処かである程度、認められる娘であり、嫁であろうとする私について、互いの距離感や価値観の違いがあるにも関わらず、おもしろい程ふたりの意見が一致している。

母曰くわがままな一人娘に育ち、学校からもらってくる通知表には、毎年違う担任から同じことを記され続けてきた「協調性の欠落」に引き換え、幼い頃から入れ替わり立ち替わり、家に連れて来られる孤児たちに、自分の部屋やベッドを分け与え、共に育ってきた主人のようなヒト曰く「シェアする心の欠如」が顕著な私。「覆い隠さない」志しで、直感のままに生きるこんな自分を、このふたり以外で受け入れてくれようとしている人たちに巡り合っている今日。いわゆる沢山の友達はいたとしても、これって奇跡でしかない。

そして「ウチ」と呼べる場所へ行って何が起こるかといえば、私自身が学生時代から背負ってきてしまったアート、音楽、人に関する固定概念をどんどん覆していくのだ。勿論まずは聴こえてくる音に始まり、そこに集う人々の在り方、美味しい料理、あたたかい雰囲気、そして知らなかった自分を知るまなびが早かれ遅かれ嫌でもやって来る。聴き終わった後に話を聞いているうち、ある程度のことは音楽によって、または踊ることによってお互い説明がついているので、凝り固まっていた自分が砕け落ちていくのを同時に客観視している感覚。これだけでも「無形資産」を与えられている感は既に大。

昨年までの私は、そこに何故私が混ざっているのか自体が、自分自身への疑問だったから、様々な素材を用いて音を生み出し実際の制作活動を続けている周囲のアーティスト達にしてみれば、さぞかし滑稽なキャラに写っていたことだろう。イヤ、現在でも間違いなくそう笑。そこへ行って聴く行為自体がとても実験的な要素を含んでいると、ある段階で気づいていた。見境い無いワタシではあるのだが、わざわざ100パーセント居心地がイイ訳でもない所へ自分を置いてしまう欲求とは、偉大なる音楽のチカラに他ならず、改めてそのスゴさに対して無力の自分を感じざるを得ない。

幸いにも1971年夏に行われた有名な心理学の実験『スタンフォード監獄実験』にあった肩書きや地位を与えられた人達の心理が突然変異する環境とは真逆。普段から誰が何なのか予習もナシで現場へ飛び込んでいるので、コロンビアから演奏しに来たあの人もドイツから演奏しに来たこの人も今日は料理人として雇われて来た華僑の人も皆、作家として社会的に確立していると察するのだが、私にとっては一見「遊牧民の集い」。もしやその『雰意識』こそが差別や格差、偏見のない社会発展を目指してこの家の主が生涯かけた「実験アート」の試みなのかとも錯覚してしまう、そんな台所はユートピア状態。そこで聴く音はニューヨーク最後の楽園。

またある時は、音楽好きを軸にしながらも、本人決してパーティーやりたいワケでも無いのに、人々の「心のシェルター」なる場所を作りたい一心で自らの身を粉にし、想像力を豊かにし、夢みる力を育むような柔らかいブランケット風で常に人と接し、キツイ辛い厳しいであろう環境下で継続してくれている。そんな特別な痛みと喜びを味わえる先へと足を踏み入れた途端、私個人の考えや想いなどあまり関係なくなってしまう。大切なひたむきを維持するのが精一杯なのが胸いっぱい。壊れそうなくらいのその献身を要所要所に読み取ってしまえば、おもわず初心に襲われる、踊り明かした帰り道。

ところで、ワタシはお酒やドラッグを使って音楽を聴いたり踊ったりしない人なのだが、重症の音楽中毒患者であることは完ぺきに認めている。なので度々やってくる禁断症状をおもわず抑えきれず、出された音を飲み干し、鼻から吸い込み、腕や太ももに射つ為に、音楽を出汁にした誘いにはフラフラと意図も簡単について行っては踊るコトが後を絶えなかった。そして聴いて踊っているカラダとは快感を覚えるモノなので、もちろん病み付きとなった。だから他の人たちの家を「救いのドア」と感じることは、ある意味、私にとって容易かったのかもしれない。

私自身の内側に「心の平和」という
ウチを見つける迄は。

主人や母も含め他人の理にかなう実現ではなかった。だが音楽という魅力的誘惑だけに、欲望をコントロールし意志を貫くには、かなりの難航を要するとも理解しながら去年までライブやパーティーやフェスで音楽にどっぷり浸かり何とかやり過ごしてきた。

良くも悪くも自分のまま、感じたままに、信じたままで日々生き抜いていくその行為を自らへ都合良く容易にはしてこなかった私。そんな自分の弱さが痛いくらい分かり始めてきている。だからこそあえて体内時計が長い年月、完全に止まったままの人々が持ち続ける迷信、先入観、都市伝説、架空の人や物事、因習的社会の教えに基づく期待を完全に裏切る素のまま、心のままで生き続けてみることに努めた。

この直感をスーパー直感に磨き上げる実験を、私の人生を使って実践し始めてから早二年が経っていた昨年12月6日金曜の夜、午後7時と9時からの二回に分け、「招待者のみ」で行なったポエトリー・パフォーマンス。自分の真実をひとと共有することにより、ようやく自分の直感が産み出した衝動とは、我が人生の何処ら辺に由来していたのかへの手掛かりを知る第一歩を踏み出すことができた。これまさに参加賛同してくれた友人たちの存在無しでは有り得なかった。感謝では足りない。

今までの自分だったら苛まされるような複雑な想い、正直なところ消滅し切っているワケでもないのだが、今の自分に分かっているのは、このワンナイトのプロジェクト直後、気持ちがとても満たされ、訳も無く嬉しくなったコト。三人まるで子供のように一晩中話し明かし大笑いしたコト、私には忘れられないでいる。

この動画は2014年の夏、地元の町興しに協力した際に作られた。鳥羽湾の潮の香り漂う駅前で、(バックに映る坂手島のホテルは、テレビドラマ『探偵物語』の撮影ロケ地となり俳優の松田優作も訪れた『ニュー美しま』)茶髪おかっぱムチムチマーメイドおばさんが、しぶちかにある舞台衣装の店『ヤマダ』のチョーカー付きラメ花柄水色総レースのドレスで唄い踊る場面が、1分20秒と3分55秒辺りに出てくる『ハッピー・トバ 』の予告編。

それと、奇遇にもこのドレスを着て
今回のパフォーマンスも行っていたワタシだった。

元々、地元が好きになれず外へ出た自分だった。なのに鳥羽のひとの為に何かやってみようと思った時を振り返れば、「地元愛」が確実に芽生えはじめていた。同郷の参加者達とは明らかにひとり違っていた「サンラおばさん流」をあえて追求し始めた当時の確信的ビデオだと今観て思う。

そしてなによりもヤル気にさせてくれたのは、世界同時発生したこの「ハッピーで踊る現象」に自ら感動し、オプラとの番組インタビューでその著作権に関して聞かれた際には、涙を流しながら謙虚に答え、寛大に受け止めていた、素晴らしいアーティストであるファレル・ウィリアムスのヒット曲『ハッピー』そのもの。

愛が国境を越えていくように
「世界共通語」という音楽だからこそ
様々な境界線を超えていけると
私はそう信じている。

48歳から人生の本編スタート。「生きる」記録の断片を書く活動みならず、ポエム、版画、パフォーマンス、ビデオ編集、家政婦業、ねこシッター、モデル、そして新しくDJや巨匠とのコラボ等、トライ&エラーしつつ多動中。応援の方どうぞ宜しくお願いいたします。