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人間味ラーボール

この名に気づいた当時、日本語ブログのタイトルがようやく簡潔した気がした。

ひとなつっこい外見でも実際には対人関係が大の苦手。でも人ってホント「大事」で面白いからやめられないのを実感する今日。

文中で(あえて書かない箇所も含め)書いている人達や物事は、自分自身を照らし出す鏡の役目を果たしている。よく似ていたりするからより好感が持てたり余計に嫌気が差す。それは自分の母をみてそう思った主人から授かった知恵だった。

そこで、どうして音楽を聴くのか、聴いて踊るのか、踊って感じるのか、感じて気づくのかを、書く行為によって人生の予習復習。各シチュエーションで自分に足りない部分は、特に明確にできた。

踊っている時、天井を仰ぐ度、おもわず崇拝してしまうミラーボールの神さま(通称:ミラボーさま)。その厳かな存在からは程遠いじぶん。中学時代、母に連れて行かれた(と言うと人聞きが悪いと注意された。が誤って横髪をまちがって短く切ってしまっただけで、二週間学校に行かせないと独断と偏見で決め、学校の担任に電話したのは、一瞬にしろ怒り狂った母自身だ。家に居てヒマを持て余した13歳が『神頼み』だろうが一緒に行くかと聞かれたら、そりゃ一ワケも分かってないし付いて行くだろう笑!)新興宗教の会場でのレクチャー三日目のできごと。ひたい中央に手のひらをかざすと各自に憑いている動物が出てくる話の流れで、四つん這いになって道場を駆けずり回っている中年男女を目の当たりにしたことがある。そして、ダンス中のワタシもまた、ミッドライフクライシス中、お狐さまに取り憑かれたオバンとしか見えなくても仕方ないありさま。

とにかくコロナウイルスがやってくるまで進行形だったパーティー修行の身であるが故、心の葛藤や耐えがたい不条理と向き合う直情型生身の人間、出戻り新人6年目のパリピン子。だから家政婦には色々と見えてしまう。ア、女優を間違えた。

noteにこう書きながら、改めて新年明け心機一転した。我がブログサイトをクローズしたばかり。そのサイト立ち上げの前には、Bloggerサイトで記念すべきデビューを果たした。その時に使っていたタイトル『人間ミラーボールの裏話』を半ば引き継いだ風の『人間味ラーボール』へ改名。

私にとってはどちらでも同じ意味合い。だが断然、語呂がよい。人間、味一番、ラーメンはさっぽろ一番。さっぽろ一番は味噌のあじ、餃子に垂らす油はラー、駆けつけ一杯ハイボーラー、でも酔いしれるのは音楽だけミラーボール下、みたいに広がる「連想像力」からきて『人間味ラーボール』と命名。

この際、ラッパーもやらせてみて欲しい笑。

音楽と密接な関係にあるミラーボール。音が鳴ってはじめて本領発揮する。球体のカーブ状に写り込んだ人や物は、もはや回りながら散りじりバラバラに抽象化した模様。表面にほどこされた無数の小さな四角い鏡は照明の跳ね返り受け、鮮やかな光線織りなす。それが「味」ラーボールになると話が変わる。風呂や睡眠を削って、最長の時間と最大のエネルギーを注ぎ込む超現場主義。ダンスフロでのみまともに機能する。音楽を聴いて踊る行為ナシで、実際に我が人生で起こった数々の出来事への突破口はなかった。そのひとつひとつに必ず共存していた光と影。ひかりの明るさは闇の深さを知らないと伝えられない。これぞわが哲学。

マイ宗教である「音楽」の産物であり、象徴でもあるミラーボール。伊勢神宮の祭壇に祀られている八咫鏡(やたのかがみ)ともなると、自分を拝むイコール反映の中に見る自らの神を崇めて、行動を自覚する万華鏡的なエフェクトらしい。ココ突っ込み始めると余計とっ散らかるので一旦停止。あとは自然の流れに任せよう笑。

その一方で、光を反射する性質を持つこの道具、本人と本物の鏡像とは化学的に完全な同一ではない。このポイントがとても興味をそそる。トータルで比喩すれば、「味ラーボール」は私の体であり、アナタを投射したワタシの心となりうる。

楽しむ音を具現化した人間臭いヒトが、飛び跳ね回転しながら輝き反響する。

音楽そのモノになる瞬間。

これこそが「人間味ラーボール」。


48歳から人生の本編スタート。「生きる」記録の断片を書く活動みならず、ポエム、版画、パフォーマンス、ビデオ編集、家政婦業、ねこシッター、モデル、そして新しくDJや巨匠とのコラボ等、トライ&エラーしつつ多動中。応援の方どうぞ宜しくお願いいたします。