本日、8月7日21時~地上波初放送の劇場アニメ『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』でお勧めするヒロイン・なずな(広瀬すず)のあのセリフ[エッセイ]

本記事は、本日、8月7日に日本テレビで夜21時から放送される劇場アニメ

『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』

をおすすめするエッセイである。


この作品は、元をたどると90年代に制作された実写ドラマの反響からスタートした。
最初は、当時かなり話題になっていた「if」というドラマシリーズの一作として放送されている。

このドラマは、当時、大学を卒業したあとの20代前半の頃だったと思うが、私も観た。
状況についてはおぼろげな記憶しか残っていないが、深夜にテレビをつけていて偶然目にしたから、再放送だったのかもしれない。

ハッキリしているのは、現在においても忘れることのない強烈に記憶として、脳裏に焼き付けられたという点だ。

特に惹きつけられたのは、夢の中の記憶に自分がいるような、どことなく既視感漂う空気あふれるフィルムの仕上がりと、このときはまだ世間的にはまったく知られていなかった奥菜恵の神秘的ともいえる美少女ぶりである。

ドラマでの登場人物の設定は、確か小学校高学年ではなかったかと思う。実際には違うかもしれないが、私はそう思い込んでいた。
収録時の奥菜は14歳だったそうだが、その設定を真に受けて視聴していた私は驚愕した。
「これが小学生!? ウソだろう? 何なんだこの子の色香は!?」
ほどなくして、奥菜はその後、美少女女優として一定量の人気と知名度を得るようになっていく。


とまあ、またいつものように本題に入る前にのめり込んでしまった。
当時の思いについても、それはそれで一本書けそうな情熱がいまもあるにはあるが、ここから先は本題に進もう(笑)。


本日放送される劇場版アニメーションは、当時のドラマをベースにしつつ、オリジナルの設定や要素を多少なりとも入れる形でアレンジされて制作され、2017年に公開された。
アニメーションの制作は、『化物語』や『魔法少女まどか☆マギカ』などで評価を得て、制作スタジオとして高い地位を不動のものにしたSHAFT(シャフト)と、先鋭的な演出で知られる新房昭之監督によるおなじみのタッグである。

だが、今回は映像の演出に関する評論をするつもりはない。
この劇場アニメーションにおいて、私がドラマのときの奥菜恵と同じくらい衝撃を受けたのは、物語のヒロイン・及川なずな役の女優が演じたひとつのセリフからだったからだ。

その女優とは、いまでは知らない人の方が探すのが難しくなってきたと思えるほどの存在に上りつめた感のある、広瀬すずである。

件のシーンは、冒頭からおよそ57分後あたり。
広瀬が演じるヒロインなずなと、最初の「if」では分岐点となる水泳勝負に負けたことで、また、2度目の「if」では駆け落ち目前の電車のホームでなずなの母親と今度父親になる予定の男に行く手を阻まれ、いずれも後味の悪い別れにしてしまった主人公・島田典道(声:菅田将暉)が、3度目のチャンスでようやく電車に乗り込み、落ち着きを取り戻しつつぶっきらぼうに交わされる会話の中にあった。

なずなが自分自身、母の浮気相手との間にできた子であり、駆け落ちして今の町に来たことを典道に告白し、私にはママのビッチな血が流れている、このまま駆け落ちしようか? と典道を誘う言葉遊びの流れで、東京に出て一緒に暮らそうようよ? 水商売がダメだったらどうしよう? 芸能界とか入ろうかな? とうそぶく。
アイドルにでもなるのかよ? と冷静を装いながらも顔を引つらせる典道に対して、なずなは典道に問うように、それでいて自分自身にも問いかけるように、少しだけ早口でつぶやくセリフ。
これが、秀逸なのだ。


「無理かな? ケッコー(結構)いけると思うんだけど……」



ドキッとした。
理由は瞬時に説明できない。
だが、とにかく、好きになってしまった。
そのパターンだ。

ただし、それはセリフの中身に……ではない。
なずなというキャラクターにでもない。
すず、、、だ。
広瀬すずのセリフの言い回しに、心を射抜かれたのである。



本作での演技における広瀬の評価について軽く調べてみると、必ずしも高くはなかったと推測できるようなコメントがいくつもあった。
近年、オリジナルの劇場アニメーションの場合、作品の宣伝効果や話題性が高くなることが期待できる理由で、有名俳優やタレントがキャスティングされることが多い。
本作についても例外ではなく、当時からすでに『ちはやふる』などで主演を務めるなど、若年層を中心に人気が上昇しつつあった広瀬と、『仮面ライダーW』で主演を演じて同じく期待の若手俳優だった菅田将暉に白羽の矢がたったという経緯である。

だが、アニメーション側にどっぷりと足を踏み入れているファンの中には、この風潮に顔をしかめる者も確実にいる。
必ずしも全員が……というわけではないが、「餅は餅屋」として、日頃から激しい競争の中で演技を研ぎ澄ませているアニメ声優の起用を支持する層の意気は根強い。

一般的なアニメ作品において、声をあてているアニメ声優は、当たり前だが、顔出しすることがない。
そのため、実写の俳優やお笑いタレントなどが、時として有効活用する自分の顔芸、つまり表情の変化などによってセリフの意図を示すサポートができない。
だから、キャラクターの個性を十二分に引き出すために、声優は声質の変化や声の出し方の抑揚に演技のすべてを込めるような発声となる。

それは、見る人によっては「くどい」ととらえられたり、「表現の押し売り」などと思われることもあるのだが、静かに単調にしゃべるときでも人の耳にインパクトを与えるし、やさしくしゃべるときにはやさしさを強調するようなしゃべりとなるのが、良くも悪くもアニメ声優の生命線なのだ。

それに対して、普段実写で演技をしている俳優は、そういうアニメの世界における演技方法について、仮に理屈で理解していたとしても、一朝一夕で同じように再現するのは難しいようである。
そのため、アニメでの演技経験の少ない俳優やタレントが声をあてると、どうしても淡白な印象を観るものに与えることが多いのが実情だ(もちろん、例外も多々あるので、これはあくまでこれまでの傾向から読み取った一般論であるということをご理解頂きたい)。


しかしながら、私は声優慣れしていないはずの広瀬のセリフに、確かに射抜かれたのである。

「無理かな? ケッコー(結構)いけると思うんだけど……」

実際問題としては、このセリフ自体、ぶっきらぼうな棒読みであり、感情を込められた発声にはなっていない。
いわば、“素人臭さ”漂うセリフ回しではある。

なのに、なぜだろう?
この素人臭い棒読みこそが、「リアルな女の子」の原体験として、50歳の大台まであと半年少々に迫るオッチャンである私の少年心を激しく揺さぶるのだ。

これはひょっとして、アニメに声をあてることに慣ていないからこそできる演技であり、大変申し訳無いが、おそらくアニメ声優さんには真似できないものなのではなかろうか?
いや、それどころか、ひょっとすると、このときの、この年齢での、そしてこの時点のキャリアでの広瀬すずだからこそ、可能にした芸当なのかもしれない。


当時の広瀬は、どのようなからくりでこのセリフをこのように発したのか?無意識か? あるいは、当時の時点での「いまどきの中学生」を意識してのものか? あるいは、音響監督の演技指導により、その意図を十分読み取って応じたものだったのか?

今、ならべた可能性の羅列の順番は、後ろへ行けば行くほど、“あざとさ”の度合いが増す。
特に3番目であるとしたならば、広瀬は私のような中年層以上のキモオタおやじどものウケを狙ってあえて棒読みを演じた、ということになる。

その一方、演技の難易度は反比例して跳ね上がる。
狙ってあの棒読みをして、多くの視聴者をドキッとさせたのであれば、その演技力はもはや……あまり良い例えではないけれど、結婚詐欺レベルといえるだろう。みんなすずに騙されて婚姻届にサインしてしまうに違いない。

ゆえに、広瀬が当時の若さで、あえて素人臭さ丸出しにしつつ、意図的に男性の心を奪うような芝居を演じていたのであれば、驚きを否めない。
その意味では、女優・広瀬すずを評するにあたり、本作でこのセリフに至った経緯を知ることは、大変重要な分水嶺になると私は考えている。

まあ、演技については完全にド素人の私がなにを偉そうなことを言っているんだ? とは自覚しているが、そのド素人にここまで力を入れて語らせてしまうほど、このときの広瀬のセリフにはインパクトがあったということでご理解、ご容赦頂けたら幸いだ。



それに、今になって見返してみて思うのだが……。
(実は、本日放送があると知って待ちきれなくなり、すでに別途NHK-BSで放送した際に録画した映像をさきほど観てしまった(笑))

広瀬の演技、全体的にみて、そんなに大根であろうか?

否!

である。
たしかに、劇場で観たときには、「ああ、俳優さんが演じるときの典型的な淡白さ、素人さが丸出しだな」などと、見下すように軽薄な評価をしていたかもしれない。
しかし、その後の広瀬の出演作をいくつか観たあとになって、本作を再度見直してみた今、私はまったく違う感覚を得たのである。

そもそも、広瀬のセリフ回しは棒読みを基調にしている。
要するに棒読みは広瀬の独自性であり、個性ですらあるのだ。
時の流れによって、私の五感にはそういう先入観がもはや無意識に植え付けられてしまっているため、今本作を観ると広瀬の演技に淡白さや素人臭さはまったく感じられない。
広瀬は当時から、あくまで“広瀬すずチック”な韻の踏み方をしているだけではないか。
むしろ、当時の私の見解の方が思慮が浅かったのだ。なんてこった……。

俳優は円熟してくるほど、監督や演出家、視聴者らが求めるものにしたがって自分を役に寄せていくのではなく、その演技力で役そのものがその人に引き寄せられるように感ることがある。
現在の彼女にも、多くの者を「広瀬すずらしい演技だね」という空気に帰着させ、正当化してしまうだけの吸引力があることを、暗に物語っているとも言えるだろう。


本作以降、私は『なつぞら』などで広瀬の本筋である顔出しでの演技を改めてじっくりみる機会を得た。また一方で、番宣などでバラエティ番組などに登場し、演技をしているときとは似ても似つかない、そこらへんの若者となんら変わりないかなりサバサバとした空気感をさらす広瀬の姿も何度か目にした。

そこから逆算するに、やはり広瀬は本作において、当時から一番“あざとい”側である、作品や音響監督の意図を十分理解して、すべて計算ずくで、あの“棒読みドッキリセリフ”を発したのではないかと疑わずにはいられない。

私はフリーライターとはいえ、自分の得意ジャンル的なことを考慮すると、さすがに広瀬と直接対面できるような可能性は、いまのところ見い出せない。
つまり、インタビューする機会に恵まれる可能性は皆無に近いと思われるが、もし、奇跡的に話を伺えるチャンスが訪れた暁には、何が何でも、このセリフの裏側について聞いてみたいと思っている。

たかがひとつのセリフかもしれないが、そのセリフに込められた意図の可能性はひとつにあらず。

私の中では、広瀬の当時の思惑次第で、本作全体の評価が大きく動くだろう。そのくらい、このセリフにかかる比重は高いものだと思っている。


ここから先はちょっと余談になるが、、、

今になって、とってつけたようにアニメーションそのものについて申し上げておくと、本作は、渡辺明夫によるキャラクターデザインの妙に加えて、監督の武内宣之がメインで手掛けたと思われる建築物のアート性、さらに武内が実は密かに野球好きであることが垣間見られるアイテムのガラス玉を投げる細かな描写シーン、そして、総監督・新房昭之直伝と思われる斬新なカット割りやレイアウトの妙といったSHAFT作品独特の演出など、映像としての魅力も満ちた仕上がりになっている。

もちろん、そこには、原作たるドラマを手掛けた岩井俊二によるファンタジー性あふれるストーリーによるところが大きいことも、最後になるが言い含めておきたい。

ぜひとも、未見の人はトイレに立つことなく、一気通貫で観てほしいと願っている。
夢の中のような「あの頃」を思い出しながら、そして、ここでしつこいくらいに語り尽くしたあのセリフ、

「無理かな? ケッコー(結構)いけると思うんだけど……」

の瞬間を逃すことなくドキッとしてくれたら、私から申し上げることはもうなにもありませぬ。。。。。


さらに、最後の最後に、もうひとことだけ。

大変長文になってしまい、すいません。
偉そうなことばかり言ってすいません。
もう、本当にすいません。

どうか、お手柔らかにご評価頂きまして、ご称賛頂ければ最高ですが、もし、お気を悪くした場合は「華麗にスルー」でお願いします。
現在の私、マウントを取られるような批判を受けてtwitterからnoteへ逃避してきた立場でございます(笑)。
批判に対する耐性がまったく備えられておりませんので、そのあたり、ご配慮頂けれるとありがたいです。
恐れ入りますが、よろしくお頼み申し上げます。

[文中敬称略]

できましたら、サポート頂けると助かります。テレビとか出ているので一見派手ですが、フリーライターの実情たるや寒いものです。頂いた資金は自腹になることが多い取材経費にあてさせて頂きます。