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「ゆるく」に飽きた

心が弱ってしまったとき、自己啓発本に近いものや哲学書に救われた。哲学書はときに厳しくもあるけど、近頃の自己啓発本は「無理しないでいいよ」「逃げればいいよ」と誠にやさしく励ましてくれる。

根っから真面目で臆病な私は、人に反感を持たれないよう、持たれないように細心の注意を払いながら生きている。で、やさしさを振り撒きすぎて逆に誤解をうんだり、優しさを振りまいたものに対する対価を知らず知らずのうちに求めてしまって、リターンが弱くて苦しんだりしてしまう。

こう書くと、実に不器用な生き方をしているな、と思うのだけれど、きっとほかの人も似たようなものなんじゃないかと勝手に想像している。

で、優しい自己啓発本に救われる、という話に戻しますが。

もちろん、その啓発本の優しさにかまけてすべてにおいて逃げるという選択肢をとれるような潔さはないので、それでもやっぱりがんばってしまったり、人の信頼を獲得しようとして、思ってもないことを言ってしまったりする。

近頃、そんな傾向が強かったのかのかもしれない。ある女性から思わぬ注意を受けた。注意、でもないか。あからさまに、イライラした雰囲気を出された。

その相手がイライラした理由というのは明確で、わたしのゆるゆるとした活動に、嫌悪感を抱いたから。彼女もわりと適当に生きていそうな人なのだが、今回の件に関しては、わたしに「おい、ちょっとヌルすぎやしないか」と思っているようだった。彼女は、とある活動を共にやっている仲間だ。

普段なら、ぬるすぎると指摘を受けたとしても「ですよねー、わたしこういうアプローチしかできないんで」と開き直りのような対応しかできなかったが、今回はちょっと自分の中の心の持ちようがちがう。

ゆるい、ぬるい、適当。それでいいのだ。
そんなワードがもてはやされて久しい。そのおかげで、私も含めいろんな人がなにか活動をするうえでハードルを低くできた、そういう恩恵もある。現にわたしは近年、「0円マーケット」なるものを始めてみたり、子ども向けの「無料の自習室」みたいなものを始めたりしている。

ゆるくていい、しっぱいしてもいい、適当でもいい。そんな価値観が、アクションをおこす上で下支えになっているのだ。

しかし活動をしていくうちに、飽きてしまうことがある。「ああ、今日これから行かなきゃなー、寒いし、めんどいな」と思うこともしょっちゅう。「飽きる」という状態がおこったとき、下支えになっていた「ゆるくていい、失敗してもいい云々…」というものをベースにすると「じゃ、やめればいっか」という結論にソッコーで至れてしまう。

やり始めるときは、重い腰をあげるために「失敗してもいい、ゆるく続ければいい」と、それを起点に動き始めるのだが、その感覚を引きずってしまうと軽く腰を浮かせたくらいのところで、またストンと腰を落として座れてしまうのだ。

ここ数年、いろんなことを「ゆるくやろう」をスローガンにして、いろいろ進めてきたのだが、つい先日、前述の彼女のイライラを誘発してしまったのだ。ひとりでやるにはゆるくていいが、人と何かをするとき、ゆるくていいよね、をがっつり共有できてないといけなかったのだ。

「やり始めたはいいけど、こんなことじゃダメでしょうよ」。彼女はたぶんこう言いたいんだと思う。私としては、「だってゆるく始めたんだからそんな急に本気になられても」と思わないではない。でも、ゆるく始めてそのままゆるゆる進んだのでは、なんにも刺激がなくてすぐにきっと「つまんなくなる」のだ。

彼女のムッとした表情を見て、わたしは最初たじろいだが、しばらくいろいろ考えてみて、たしかにこのまま活動を続けていっても飽きちゃうだろうな、というのはすぐに予測がついた。

哲学者の千葉雅也さんがツイッターで、「セブンイレブンが優秀な理由」を何回かにわけて呟いていたことがあった。詳細は覚えてないけれど、「セブンは本気なのだ」ということを言っていた。本気の度合いがちがう、と。ローソンやミニストップとは本気がちがうのだ、と。

彼女のイライラについて考えていたとき、このことをわたしはふと思い出した。「本気」かぁ、と。ゆるくてヌルい活動をいくつかやってきて、どれもこれも飽きる時期がきているというのは確かだ。刺激がない。始めた当初は楽しかったのだが。

で、飽きたらやめたらいいやと思っていたけど、やってるうちに少なからず人を巻き込んでしまう。その人たちは面白さに賛同して集まってくれているのだが、わたしが飽きてやめてしまっては、その人たちの楽しみはどうなるのだ?

まぁ人のことは、正直なところ二の次ではあるのだけれど、わたし自身、それを楽しめなくなる→辞めちゃうという、サイクルにもきっと飽きてくる。いろんな活動を並行してやっているけど、「この先どうするの?」とビジョンを考えることを、「ゆるく、ぬるく」は停止させてしまう。

いわゆるビジョンを考えることは、「本気でやる」ということにつながるのではないかと思う。

半分飽き始めていた自分にとって「本気」という2文字を思い出したとき、ピンときた。こうやってみよう、あれをやってみようという、その活動の未来への投資のようなことを少しずつ紡いでいくことを「本気」と呼ぶのかもしれない。

それをやり続ける限り、活動は続いていくし、当初の形ではない方向にいくかもしれないけど、それはそれだ。「ゆるく・ぬるく」で起きたムーブメントでも、結局「本気」という燃料で動いていくものなのかもしれない。

今までは、活動を始められた自分にすっかり満足してしまっていた。だから「ゆるく・ぬるく」だけでなんとなく続けられていたのだが、その自己満足も期限切れがきたのかもしれない。結局、「本気」がないとなにごとも続けられないってことだ。

「本気」の自分はどうなるんだろう? 活動がこれからどうなっていくんだろうという期待感とともに、自分の本気ってどんなのよ?という思いもある。だって今まで「ゆるくヌルく。失敗上等」できたのだから。

少し話がそれますが。

ついこないだまでなら、イライラさせてしまった彼女のくすぶる火種をなんとか消そうと躍起になって、ご機嫌うかがいに徹していたかもしれない。でも人の機嫌ばかりとっても疲れるだけだ。それにそんなことでその火種は消えやしない。

ぬるくユルくやって行こう、というのは、活動のスローガンにもなっていたが、近頃のわたしは人間関係においてもそうなっていたのかもしれない。キリッとヌルさを否定した彼女の顔を思い浮かべて、そう思う。

人間関係における「ぬるく、ユルく」は依存の香りを含んでいる。「まぁまぁいいじゃないの」と、いろんな面倒にふたをしてのらりくらりとやっていくことだ。それでいいことも、もちろんあるかもしれないけど。

活動をキリッと本気だして立て直すことで、そういうわたしの奥に眠る他人に対する「ゆるくヌルく」も、いい加減卒業できたらいいな、とふと思ったのでありました。それが不惑と呼ばれる40代の礎になりますように。

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