ファンに「外野」の言葉は届かない
※この記事には性暴力に関する記述が含まれます。
ジャニー喜多川による性加害疑惑についてBBCが取り上げたのは3月18日だった。それから半年が経った。好きなグループはこの半年でシングルとアルバムを出し、夏のツアーで全国をまわった。ジャニーズ事務所周辺を取り巻く状況はその間に大きく変化した。
3月のBBC報道から、まるでそれが存在しないかのように振る舞う大多数のファンや、一方で暇アノンに扇動され陰謀論やネトウヨなどと合体していくごく一部のファンを視界の端に捉えながら、この件についてどう受け取るべきか、今後どうすべきか、個人的にあれこれ考え続けてきた。
ジャニーズ事務所の空疎な記者会見
9月7日、ジャニーズ事務所が会見を開いた。元社長現取締役の藤島ジュリー景子、新社長の東山紀之、ジャニーズアイランド社長の井ノ原快彦に加え、木目田裕弁護士の4名が出席した。
役員らはジャニー喜多川による性加害はあったと認め、それについて謝罪した。今後は被害者救済を行っていくと表明し、東山氏は被害者への誹謗中傷をやめるよう訴えかけもした。一方で、被害者はもちろん現役タレントに対するケアの具体策への言及はなく、「できるできないじゃなく、やるかやらないかと思った」などの精神論が繰り返された。
いち企業の役員として発されるにはあまりにも軽いその言葉に、彼らがそうやって芸能界を生き抜いてきたことを様々なタレントの言葉として耳にしたことがあるがゆえに、なんともやりきれない感情を抱いた。
メディア、スポンサーの「無責任さ」
会見直後から、スポンサー企業は雪崩を打ったかのように、ジャニーズ事務所所属タレントの起用(契約更新しない、など)に関するリリースを出した。あの会見の内容では、株主への説明も待ち受けている企業が取るべき/取らざるを得ない行動として理解はできた。
とはいえ、BBC報道から半年の間に何らかのアクションを取ったスポンサー企業はあったのだろうか、とも思わざるを得ない(その点で3月から起用を見合わせたというJALの対応は他と比べ物にならないだろう)。決定権がスポンサー企業にあるとはいえ、広告活動の提案を行う立場にあり、実際のキャスティングをおこなうことも多かろう広告代理店が取り上げられないことにも違和感を抱いてしまう。
また、4月12日に開かれたカウアン・オカモトさんの会見を地上波で1秒たりとも放送しなかった民放各局が(NHKですら90秒だった)、ジャニーズ事務所が会見を開いた今になって、報道番組からワイドショーまでありとあらゆる番組で仰々しく「ジャニーズ性加害問題」を取り上げ「報じなかった責任を感じている」と反省の弁を述べ立てている。正直見ていて反吐が出そうになる。組織が一枚岩でないことは分かるし、局によってこれまでの報道の多寡が異なることも知ってはいるが、さすがに笑ってしまうくらい醜悪だ。
井ノ原さんのこと
会見でそれらしいけれど空虚な言葉を繰り返す東山氏、見当違いのことを言いながら泣き出してしまう藤島氏に比べると、井ノ原さんはいくらか「まとも」に見えた。実際に会見後には彼を称える記事が複数公開された。
しかし、あの会見での発言を見る限りそうではなかった。ワンズコンのドキュメンタリーで彼が話したことを思い出しながら、何かの言い間違いだったらいいのにと思いながら会見を見た。
「社長」が所属タレントにとって「権力を持たない存在」であることは不可能だ。だからこそ自身の権威、自身が権力を持っていることを自覚したうえで、境界を引いて接することが必要になる。それくらいのことは分かっている人だと思っていたが、そうではなかった。「まとも」に見える井ノ原さんも異様な世界にいるらしいことがショックだった。
藤島氏は分からないが、東山さんも井ノ原さんも、絶対的な権威を持つ大人からの暴力に怯えざるを得ないコミュニティで育ち、それがゆえに、人権や尊厳、権力のあり方などについてあまり理解しないまま大人になってしまったように思えた。その時代の価値観の影響もあるから、きっと同じような中年は一定数いるだろう。だけど、彼らは、記者会見という公式の場で、会社の役員として、建前としてでも言うべきことをおそらく本当に理解できていないのだ。
でも、それはタレントである彼らだけが負うべき責任なのだろうか。
メディアも含む関係者の「性暴力」に関する知識のなさ
そもそも、子どもへの性暴力が存在する環境に幼いころから置かれてきた、という意味では「被害者」の側面も持つタレントが、そして経営の経験がないであろうタレントが、こんな重大な局面で新社長を打診されること自体が不適切に思えてならない。
藤島氏は東山氏を新社長に選んだ理由について、以下のように答えたが、
再発防止特別チームによる調査報告書で、「同族経営の弊害」を指摘されていたにもかかわらず、「ジャニーズファミリー」の一員、その「長男」である東山氏を起用するという判断は、彼もまた被害者としての側面を持つこと、経営の経験がないことを差し置いてもなお理解に苦しむものだった。
記者会見前から、「ワイドショーや報道番組に出演するタレントに、ジャニー喜多川による性加害に関するコメントをさせない」という選択を取らず、タレントを矢面に立たせ続けてきた時点で事務所の性暴力への認識の甘さは推して知るべしだ。それでも、BBC報道から半年経ち(取材から数えれば1年)、少年への性暴力に関する発信が増えてきた今、事務所にいる人たちもさすがにいくらかは知識を身につけているのではと期待していた。けれど、その考えは甘かったらしい。
藤島氏は会見でファンに伝えたいことを尋ねられた際、涙を浮かべながら以下のように語った。
タレントは本人の努力によって現在の地位にいることを伝えたいなら「そういうことがあって今スターになっているわけではなく」は不要だ。一部のファンがこれを感動的なスピーチとして取り上げていたが、これは彼女が自身の性暴力への理解のなさを露呈した場面にすぎない。
一方で、記者会見では、タレントに対して二次加害にあたる質問を投げかけた記者がいた。そもそもタレントを矢面に立たせるなよ(元副社長の白波瀬氏を出せよ)、という前提はあるものの、記者は記者で、性暴力について、性暴力を報じる際の適切な方法について、どれほどきちんとした知識を持っているのだろうかという疑問もつきまとう。
何が起きたのか本当に分かっているのだろうか、という自問
ジャニーズ事務所による会見後、ジャニー喜多川の性加害/ジャニーズ性加害問題についてのニュースや情報を見ているとき、「少年への性暴力/性的虐待」について、それが具体的にどういうものなのか、私も、所属タレントもファンも、一般の人々もメディアも、本当に理解できているのだろうかと思うことがある。
私自身、カウアンさんの会見以降、火に油を注ぐ対応を取り続けるジャニーズ事務所に醒めた気持ちになりながら、「早く何も気にせずに応援できるようになればいいのに」と考えていた。なんとなくそれらしく聞こえるが、その考えには被害者への視線が徹底的に抜け落ちている。
スポンサー企業の撤退についていそいそと報じるメディアも、好きなグループやタレントの仕事が減ることを嘆くファンも、何が起きていたのか、それは具体的に誰の何を毀損するものだったのか、ひとりの人間の「生」にどれくらいの影響を及ぼしうるものなのか、直視する気はあるのだろうかと思ってしまうことがある。
同じ立場なのに、泣いてもらえる人と疑われる人
会見後、ワイドショーや報道番組に出演しているタレントはこぞってコメントを求められ、それぞれの意見や想いを口にした。ジャニーズwebやコンサートMCで彼らの想いが共有されることもあった。
その中でもインパクトが大きかったのは光一くん(堂本光一)のブログだったと思う。DREAM BOYSの開演を控えてということもあったのだろう。見たことがないくらいの長文で彼の複雑な胸中がつづられていた。
「光一くんのブログ」はその日の夜にかけてツイッターでトレンド入りし、KinKi Kidsのファンだけにとどまらず、多くのファンがそれを読み文字通り泣いていた。あのブログの内容を曲解するファンもごく少数見られたが、これまで沈黙をつらぬいてきたいわゆる大手アカウントも、ブログをきっかけに性加害の件にちらほらと言及するようになった。「公式が何か言うまで何も言わない」を貫き通すファンのその頑な姿に(特にKinKi Kidsは定期的に解散説が出回ってきたのもあるのだと思う)、ファンたちがこれまでに経験してきた不安や傷つきを感じもした。
彼の言葉に多くの人が共感を寄せたり泣いたりしているのを見るのはなぜかつらかった。「発言を多くの人に知ってもらえ納得して泣いてもらえる人たち」と、「正面から取り上げてもらうには被害の詳細を何度も語らなければいけなくて声を上げても嘘だと誹謗中傷を受ける人たち」という構造を改めてまざまざと見せつけられているようだったからだ。
光一くんはブログの中で「ジャニーさん」に対する矛盾した想いに触れた。それに共感する人たちを見て、カウアンさんも橋田さんも、名乗り出てから「ジャニーさんのことは尊敬している」と言い続けてきたのに、と思ってしまった。カウアンさんは、親から性加害を受けるみたいなものだと、橋田さんは、ジャニーさんに尊敬の念を覚えることがグルーミングと言われるならそれでも構わないと言っていた。
驚きはしないが、結局、発言する人が「ファミリー」内部の信用に足る人物じゃないといけないのだ。
「ジャニーズ」であることの意味
社名は変更せず、株も藤島氏保有のままとするというジャニーズ事務所の発表を受け、スポンサー企業の撤退が続き、現在は番組制作にも支障が出かねない状況になっている。これに対し一般の人は「事務所には期待できないから、タレントは他の事務所に移ればいい/移るべきだ」と言う。「外野」、言い換えれば「ジャニーズ」という文化や世界観を共有しない/したことがない人々にとって、そう言うのは簡単だ。
しかし、「ジャニーズ」という概念のもと、「ジャニー喜多川」「ジャニーズ事務所所属タレント」「ジャニーズ事務所」の三者はほとんど合体してしまっている。それらを切り離して考えるのは、「外野」にとっては簡単でも、「ジャニーズ」という世界の内側にいる人(≒「ジャニーズファミリー」)であればあるほど難しい。
社名を変えた方が会社にもタレントにもメリットが大きいことを頭では理解できても、「『ジャニーズ』であること」は(一定の時期までに入所したタレントにとっては)「ジャニーさんに選ばれた存在であること」を意味する。そして、それがタレントのアイデンティティと分かちがたく結びついている可能性が高いことは、ファンであれば容易に推察できる。
たとえ「自担」に退所してほしいと思っていても、彼が「ジャニーズ」であることを誇りに思っている場合は、そう簡単には割り切れない。(これは現在進行形で私が直面している問題でもある)
会見についてのコメントを求められ、「ジャニーズ」に対する複雑な想いを吐露するタレントもいた。もはや「自己」と一体となってしまった「ジャニーズ」を自身から切り離すことは難しいだろう。しかし、その複雑さをどこまで「表に出す」のかは、本人がどれくらい性暴力に関する知識を持っているか、現在の日本社会で性暴力の被害者が置かれている状況をどれくらい認識しているのかによるだろう。
ただ、タレントはガッチガチの体育会系のホモソーシャルにいる人たちでもある。そしてホモソーシャルは同性愛嫌悪をその根本とする関係でもある。ここ数年で彼らの言動が炎上したのも1度や2度ではなく、ファンからも「コンプラ研修受けて…」という声が出るくらいだった。そんな環境に置かれた彼らに、自力でそういった知識を身に着けることを期待するのは酷だろう。
光一くんのブログや、会見後のタレントたちの言動から分かることは、「タレントへの適切なケアが提供されていなさそう」であることだけだとも言える。
「女こども」が浴びてきた侮蔑と、それらから解放される場
会見の内容やその後のタレントのコメントに対し、(一部の)ファンは、被害者への視点を欠いた「ジャニーズ事務所を応援します」というスタンスを取るようになった。その「異様さ」に驚いた「外野」によって、ジャニーズのファンへの批判が頻繁におこなわれるようになっている。しかし、その中には単なる女性蔑視にすぎないものも散見される。
ジャニーズの主なファン層は女性だ。一方で、日本社会(または芸能や音楽を批評する論壇)は基本的に男性社会だ。そんな社会で価値を認められるには、「男性社会のロジックや言語」にのっとる必要がある。しかし、ジャニーズ事務所はそれらにのっとらないまま巨大化し権威となった。「ジャニーズ」は「女こどもが好む低俗な文化」として蔑視された状態のまま、社会≒男性社会で広く流通することになった。
ジャニーズは「女こども」のための場所であり、そこでは女だからという理由で馬鹿にされることは(基本的に)ない。例えば、お笑いで劇場に通うファンの大半は女性だが、彼女らはときに「ワーキャー」という烙印を押され、お笑いを「正しく評価」できない存在として馬鹿にされることがある。ジャニーズにはそれがないと言っていい。
この引用は別のジャンルについてのものだが、ジャニーズの世界で、(タレントの発言に女性蔑視的なニュアンスが含まれることはあっても)女性は「コンテンツの正当な消費者」でいることができる。
そして、ジャニーズは、日常生活では「見られる」側にいる女性たちが、「見る」側として男性を「性的消費」することができる場所でもある。
ファンに「外野」の言葉は届かない
ジャニーズは「女こども」が「正当な消費者」でいられる場であるがゆえに、侮蔑的な視線にもさらされてきた。ジャニーズに対するまっとうな批判とただの侮蔑の視線は入り混じったまま、今も遍在している。
性加害問題をきっかけに、ジャニーズそのものに関する様々な議論も多く展開されるようになった。それらは「ジャニーズ事務所所属タレントや彼らのパフォーマンス/作品の評価軸とその質」「『ジャニーズ』の大衆文化としての正統性」「ジャニーズ事務所が市場を寡占状態にし多様性を損なったかどうか、およびその是非」という3つに大別できそうだが、これらは全て別個に論じられるべきことである。にもかかわらず、「ジャニーズ」という言葉によってそれらの境界は曖昧にされてしまい、発信者と受け取り手の間でミスコミュニケーションが起きやすい状態になっている。
ファンもそこまで過剰に反応しなくても、とは思うものの、日常的にジャニーズに対する侮蔑と女性蔑視のまなざしにさらされてきたファンが、全てを「何も理解していない外野のざれごと」として処理するのも、いくらかは仕方のないことだと感じる部分もある。
まとまらない思考
長々と書いてみた割にはまとまらなかった。冬のツアーは申し込まなかった。最近出たシングルも買えなかった。今後どうなるのかも見通しがつかない。
個人的にはジャニーズ事務所の存続自体に懐疑的だ。ジャニーズ事務所の取引先の多さや、ジャニーズ事務所がなくなったときに引き起こされる様々な混乱や損失を考えると「再建」を前提に考えざるを得ないのだとは思いつつも、社会として考えたときに、果たしてそれで良いのかが分からない。
再発防止特別チームの会見が先に開かれたために、事務所自体をなくすことは選択肢から消え「ジャニーズ事務所が再出発するためにどうすべきか」という空気が醸成されたが、業界単位での再発防止やタレントの「商品価値」(レピュテーション)の維持を考えると、事務所をまるっと解体し、タレントはばらばらの事務所に移籍させ、芸能界全体で構造を見直して組織体制の見直し含む法整備をおこなうのがいちばん良いのではと考えてみたりする。「子どもへの性暴力を数十年にわたって看過してきた企業が被るべき制裁」と「被害者の可能性が否めない所属タレントが不利益を被ることの是非」は分けて考えなければいけないが、ジャニーズ事務所に関しては両者が結びついてしまっているがゆえの難しさがある。
加害者がいないせいで物事がより複雑になってしまっている感も否めないが、悪魔化されやすい加害者本人がいないからこそ、性加害(性暴力・性的虐待)を含むハラスメントが長く続いた「構造」にある程度焦点が当たっているのだとも思う。それでも芸能出版音楽の業界構造に焦点を当てて取り上げたメディアはごく一部だが。
半年間、ずっと違和感があったのは、ファンが「私」と「自担/自軍」だけで完結した閉鎖的な世界の中にこもっていて、社会に対しての視点がないことだった。会見を見て、ジャニーズ事務所/所属タレントもまた同じように「タレント」と「ファン」で閉じた世界にいるのかもしれないと感じ、なんだか恐ろしくなった。攻撃的な「外野」がいる一方で、「タレントが悪いのではない。そういう話ではなく……」とファンの気持ちに寄り添おうとする「外野」もいる。けれども、その声がファンに届くことはなさそうな様子に、一部理解できるところもありつつ、だけどやはり徒労感のような、なんとも言えない感情を抱いてしまう。
ジャニーズ事務所に入所した人物がどれだけつらい思いをしたとしても、現在「成功」していれば、それは「逆境を乗り越えた美しい物語」として受け止められてしまう。傷ついた経験をそれとして受け入れるのではなく、あくまで現在の成功した姿に至るまでに乗り越えなければいけなかった何かとして物語に組み込んでしまうこと。生身の人間を物語として消化することに慣れすぎているようにも思うが、自分もそれに加担しているので、ここをどう切り離すべきなのか、切り離さないまま語るにはどうしたらいいのか、まだ分からなくて逡巡している。
参考になるかもしれない本や映像
ガートナー,リチャード・B(編)『少年への性的虐待―男性被害者の心的外傷と精神分析治療』作品社
宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』みすず書房
齋藤梓・大竹裕子(編著)『性暴力被害の実際-被害はどのように起き,どう回復するのか』金剛出版
萩尾望都『残酷な神が支配する』小学館(漫画の方が読みやすいかもしれないと思い、9/27に追記)
9/28追記
BBCのドキュメンタリーへのリンク、JALの対応に関する記事へのリンクを本文に追加しました。JALの対応については、共同通信、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞に比べ、ジャニー喜多川の性加害問題に関する報道が消極的だった読売新聞「ジャニーズのCM起用、JALも当面見送り」でも確認できます。
10/1追記
末尾にCINRAの記事を追加しました。
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