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自己紹介その5 (整体につまづいた、その後。美術館の壺前にて)

壺を見た。

あの壺は、なんだったのだろう。

何かを活けるでもなく、美術館に飾られていた、あの壺は、あの壺たちは、

とても、美しかった。


容れ物として、生まれてきたのに、

それ自体がとても美しいから、

容れ物として機能していなくとも、よいのだった。


華美な装飾など、全然なくて、

無骨ですらあった、その壺は、あまりに、美しかった。

装飾品として、生まれたわけでもなさそうだった。

美術館に飾られるつもりで、作ったわけではなさそうだし、

どこかの家で、使われる予定や目的も、見えなかった。


いったい、なんのための、壺なのか、わからなかった。

でも、中が空な、その壺たちは、美しかったのだ。

わたしたちも、容れ物である。

にんげんは、壺以上に、中空である。

底がないからだ。

底すらないからだ。

このあいだ、よっちゃんという人体を前に、どう関わっていいか、わからないで途方に暮れる体験をしたが、

このたび、壺を前にして、

なんとなく、わかったような気がした。

なにが、わかったのか、わからないから、わかったといえないかも知れないが、

わかったような、気がした。

つぼは、壺という名前がついたことで、壺という機能が、ついてきた。

にんげんも、人名とか、国民とか、子供とか、母とか、先生とか、そういう名前がつくことで、機能がついてきた。

臓器にも名前がつくことで、機能が、分別され、

国会は様々な法律をつくり、仕事(機能)が、様々な機関に振り分けられていく。

名前と機能はセットである。

だが、あらゆるものには、名前がつく前の もの が宿っている。

そういうものに、触れたとき、

ひとは、たちつくすしかないのだな、とおもった。

そこ に対して、できることが、ないから。



よっちゃんを前に、わたしは、あのとき、「マッサージ装置」もしくは「癒し機能」として、存在できなかった。
なぜなら、よっちゃんは、つぼであり、「壺」には見えなかったから。

打つ手なし。お手上げ。さじ投げ。降伏。参った。

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