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山下達郎伝

 山下達郎。
 日本の音楽界、特にポップスの分野で長年活躍し、今も現役。1953年生まれ。東京生まれの東京育ち。生粋の江戸っ子。シンガーソングライター。良く吟味された音作りから、「音の職人」とも呼ばれる。彼はテレビには出ない。ラジオや雑誌が主な出演メディア。自身のラジオ番組「山下達郎 サンデー・ソングブック」に毎週出演中。
 彼は「若いうちの苦労は買ってでもしよう」と人に言うほどの苦労人。ミュージシャンに憧れる人たちの多くがそうであったように、彼もまた食うや食わずのアルバイトで生活をしながらプロデビューを目指す。デビューできたのはいいものの、当時の事務所は給料をまともに払ってくれなかった。そのため、デビュー後もしばらくアルバイトを続けた。そんな駆け出しの頃、アメリカに渡ってレコーディングをする機会を得た。アメリカに行ってみると、事務所がホテルの予約をしていなかったことに愕然とする。ようやく見つけた安ホテルの近所ではギャングが撃ち合いをしていて危ない思いをした。

 彼は多様な音楽を聞き、実に幅広い。そんな彼には最も影響を受けたミュージシャンがいる。

・ビーチボーイズ
・ヤングラスカルズ
・ジェームス・ブラウン
・アイズリー・ブラザーズ
・スモーキー・ロビンソン
・カーティス・メイフィールド

 音楽活動をする上で、この6組には多大な影響を受けているという。
 彼の名は今や全国に知れ渡るに至り、「夏だ、海だ、達郎だ」と世間から言われた時代もあれば、「クリスマス・イブ」の大ヒットもある。本人はこの曲が売れるとはあまり思っていなかった。これだけのヒットはこれが最初で最後だろう、と自身で語っている。
 こうして押しも押されもしない地位を築いた彼だが、仕事の依頼が全く来なくなった時期があった。これでもう引退の潮時と、当人もあきらめかけていた頃、1つの依頼が舞い込んだ。ジャニーズ事務所からだった。2人組のキンキキッズのデビュー曲を書いてほしいと言う。作曲を頼まれた。ノルマはミリオン。100万枚売ってほしいとの事。彼は再起をかけてこの仕事を引き受けた。そうして出来上がった曲が「硝子の少年」。ノルマも見事に果たした。それ以来、再び曲書きの仕事が来るようになる。

 あるとき彼はこんなことを言っていた。
 「作詞がなければこの世は天国」
 職業作詞家に頼んだこともあった。だが、ファンは納得しなかった。それなら、苦しくても自分で書くしかないと腹をくくる。
 またあるときはこうも言っていた。
 「心は売っても、魂は売らない」
 芸能界を地獄と呼ぶ、苦労人・山下達郎ならではの言葉が重く響く。そんな地獄の中でも妻の竹内まりやは彼をこう見ている。
 「達郎は音楽を聞く喜びを絶対に忘れない。どのジャンルでも」
 彼は音楽自体には罪はない、と言っていた。


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