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全自動洗濯機に組み込まれた僕

久しく文章を書いていなかった。
お久しぶりです、noteさん。

そういえば最近僕のパートナーがnoteを始めたので、ぜひ読んでください!

自分の視点で自分の気持ちや考えを文章にしてみるってとてもいいことだなあと思います。そのプロセスに取り組んでいること自体が素敵なことだと思うのです。

今日のお話はとても残念なお話です。

はじめに断っておきます。今回は残念なお話です。
日常生活ではいろんなことが起こりますが、嫌なこともありますよね。
今日は嫌なことがあったので、それを伝えようと思います。

心が砕ける家事ランキング1位:洗濯

みなさんはきっと人生は選択の連続でできていると思っていますよね。
実は、一度着た服を二度と着ないような人を除けば、人生は洗濯の連続でもあるのです。人は一度着た服を洗って、繰り返しその服を着用しながら生きていくのです。

私も例に漏れず、洗濯をしながら日々生きているのですが、その洗濯は「全自動洗濯機」におまかせしながら、実行しています。

その洗濯機は、引っ越して一人暮らしを始めたときに購入したハイセンスというメーカーの洗濯機なのですが…。これがとても曲者でした…。

毎回毎回必ず、途中で何度も何度も止まるのです。

これはほんとうに、ほんとうに、つらいことです。我が家は狭いので外に洗濯機を設置しています。年中、暑い日も寒い日も外でこの一時停止地獄と戦っているのです。

購入後2年間くらいは、最後の「脱水」フェーズにおいて、あと5分のところで止まってしまうということが頻発しました。最近では、中間工程の「すすぎ」で必ずと行っていいほど止まってしまうようになりました。

はあ、なんで止まるんだろう…。

洗濯機が途中で止まってしまう原因として、僕もネットで検索しました。すると、いろんな原因が候補として出てきます。「洗濯物の入れすぎ」「洗濯物の偏り」「排水ホースのつまり」など…。

自分の洗濯機をチェックして見るに、おそらく「洗濯物の偏り」だろうと思うのです。止まるときにはいつも、重心がずれてガタガタと音を立てるからです。

洗濯物の偏りを調整する日々

というわけで、毎回洗濯機が止まるたびに、ベランダに出て、洗濯物の重量バランスを調整して、再開させる。また止まる、ベランダに出て、調整…(繰り返し)。無限ループ様のエラーが発生しています。

人生は洗濯の連続…。こんなに洗濯機のことを考えて過ごす日々はいやです。

原因を特定して、対処するのは問題解決の基本なのですが、こればっかりは原因が特定できず困ります。毎回の洗濯でこのエラーが発生するため、徒労感が半端ではありません。腰痛の痛みと同じで、長年解決できないのです。

ここで、僕はこう結論づけます。
僕は「全自動洗濯機」を購入したのですが、どうやら自動ではなかったということです。

こいつは「半自動洗濯機」でした。

ネガ→ポジ転換

次に引っ越すときには、もうこの洗濯機は手放してやろうと思います。不良品だったのかもしれません。最後の1年位、この貴重な体験をむしろ楽しんでみようと思うことにしました。

今の状況を整理すると、「半自動洗濯機」は「私」がプロセス内に組み込まれることで、ようやく完全な「洗濯機」として成立します。

自称「全自動」洗濯機を補完するための私のいる洗濯プロセス
▶ 洗濯物を入れ、洗剤を入れてスイッチ・オン!
■ すすぎで止まる
私が洗濯物バランスを整える
■ また止まる(最低10回ほどは繰り返されます)
▶ ようやく動き出す
■ 脱水で止まる
▶ 私が洗濯物バランスを整える
終了

少なくとも途中で2度、私がプロセスに入っています。

逆に考えると、僕は人間としての存在から、部分的な洗濯機としての存在でもあるということになります。

そうか、僕は洗濯機の一部だったんだ。

割合でいうと、存在の0.5%くらいは洗濯機なのかしれません。

機械化する人間

以上の考察からは、もしかすると今後の社会を生きていくのに重要な示唆が含まれているのかもしれませんし、そうでないかもしれません。

資本主義社会においては、なんでもかんでも数値化されてしまいます。その数値の大小で評価されてしまいます。その数値を大きくするために、本来数値化できない人間という存在も、換算されシステムに組み込まれてゆくのです。その時点で、人間は機械化します。

僕はこんなふうにはなりたくない!

人間らしく、数値化されない豊かな暮らしをおくれるように選択(洗濯)してまいります。エラー音で邪魔をされない生活を求めます。

脱機械化だ!「脱成長」だ!

あ、はやく人新世の「資本論」読まなきゃ!


おわります。

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