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旅が教えてくれたこと (11) 2002年秋、ブリュッセル

■その5
 
 5日目の今日はブルッヘ行くことにした。日本では、「ブルッヘ(Brugge)」というオランダ語(フラマン語)表記よりも「ブルージュ(Bruges)」という呼称の方が馴染みがある。ブルージュはブリュッセルから北へ約120㎞、中央駅からICに乗ればわずか1時間と簡単に行ける。
 
 ちょっと早起きして朝の8時頃にホテルから徒歩で中央駅へ。30分ほどでブルージュ行きに乗れた。それにしても、鉄道の沿線の光景を車窓から眺めていると、ベルギーの田舎の風景はのどかだ。レンガ造り、石造りの農家が点在し、いたるところに牧場があって牛がのんびりと草を食んでいる。途中、ゲンク(Genk)という駅を通過したが、これはワールドカップで活躍した鹿嶋アントラーズの鈴木隆行選手が在籍していたチームがある町だ。駅から見える教会の尖塔が印象に残った。
 まだ10時前にブルージュの駅に到着し、駅構内にあるインフォメーションで地図を入手して(無料ではなく1ユーロだった)歩き始める。目指すは市庁舎のある中心部だが、市庁舎前の広場まで歩く間に、ブルージュの名所はだいたい回れそうだ。別に予定もなく、適当にのんびりと歩くつもりである。
 
 ブルージュは9世紀頃には都市の体裁ができたヨーロッパでも有数の古い街の1つである。運河で北海とつながり、12~15世紀にかけてはハンザ同盟の中心的な都市としてギルドが力を持ち、毛織物の交易などで栄えた。全盛期に、ブルゴーニュ公国からハプスブルグ家へと支配者は移っている。堆積する土砂で運河が埋まり、船が出入りできなくなったので衰退したと言われているが、産業や交易の中心がアントワープへと移ったのが急激な衰退に繋がった…ということらしい。そんなわけで、中世の雰囲気をそのまま残す、運河の都として化石のように生き残ったわけである。ファン・アイクやメムリンクなどの作品がたくさん残っている町としても知られている。
このブルージュは、「中世ヨーロッパのテーマパーク」という言葉がぴったりである。旧市街地全体が世界遺産になっており、世界中から観光客が押しかけてくる。
 
 駅前広場を歩き出して運河を渡ると、すぐに世界遺産に指定されているベギン会修道院(Begijnhof)がある。ブルージュのベギン会は13世紀に設立されたとのことだが、現在の建物は17世紀以降のものでベネディクト会女子修道院として利用されているとのこと。
 運河を渡って門をくぐると、木立の中に佇む白い建物が目に入ってくる。静謐なたたずまいが、よい雰囲気だ。建物の中には入れないので、入り口近くの小さなミュージアム(当時の部屋を再現)を見て、中心部へと向かう。
 
 まもなく、ノートルダム教会(聖母教会)の塔が見えてきた。ここら辺になってくると、観光客だらけだ。道沿いには土産物屋が並び、さしづめ「京都の三年坂」に近い風情である。観光シーズンを少し外れた、秋の平日とは思えないほどの観光客の群れで、フランス語を話す団体客が多い。ブリュッセルの中心部もそうだが、日本人、中国人、韓国人以外の西欧人で、ガイドが引率する団体旅行客の群れをこんなにたくさん見たのは初めてだ。正直言って、興醒めである。
 
 聖母教会の122メートルの塔を見上げながら歩くと、すぐにグロート・マルクトに到着する。ここが市の中心となる広場で、西フランドル州庁舎とともに有名なギルドホールと鐘楼(Halleen Belfort)が威容を見せている。13世紀に建設されたもので、鐘楼は高さが83メートル。ちょうどカリヨン(4オクターブ47個の鐘)が音楽を奏でていたが、すごい音だ。
 マルクト広場は、青空マーケットで賑わっている。マーケットをひやかしながら広場に面したカフェでコーヒータイムだ。
 カフェで一休みした後は、ブルグ広場(Burg)へ向かう。ここは、かつてのフランドル伯の館(ブルグ)があったところで、ゴシック様式の建物(市庁舎、古文書館、裁判所、聖血礼拝堂)に囲まれたこじんまりした広場だ。ここにはツーリストインフォメーションがあり、両替所やトイレも使える。
 さて、ブルグ広場からさらに適当な方向に歩き出す。運河に出たので、運河沿いの道を歩く。時々ベンチなどに座って町の雰囲気を楽しみながら、ゆっくりゆっくり歩く。
 運河は満員のお客を乗せた、たくさんの観光船が行き来している。魚市場(と言っても小さなものだが)を見物し、救世主大聖堂(St.-Salvator kathedraal)へ向かう。聖堂の中を見学していたら正午の鐘が鳴り、昼休みということで追い出された。
 
 朝が早かったので、そろそろお腹が空いてきた。昼食は、少し駅の方に戻り、ド・ハルヴ・マーン(ハーフ・ムーン:brouwerij De Halve Maan)醸造所に併設されたレストランで摂ることにした。ここでは、1856年から「ストラッフェ・ヘンドリック(St.raffe Hendrik)」というビールを醸造しており、見学ツアーもできる。
 見学ツアーはパスして併設されたレストランに入ると、広くてなかなかよい雰囲気である。ハムの盛り合わせと出来たてのビール「ストラッフェ・ヘンドリック」を注文した。普通のビールとブロンズタイプの両方を飲んだがいずれも美味しい。食事も美味しく、お勧めのレストランである。
 …と、ここまででブルージュ観光は終わりである。のんびりと2~3時間歩いただけだが、一通り市内を見物して「もう十分…」という感じだ。街の雰囲気は悪くないが、やはり観光客の多さと俗っぽさが面白くない。でも、生まれて初めてハンザ同盟の都市を訪問したことには、十分な感銘を受けた。美味しいビールも飲んだし…
 
 2時頃の列車でブルージュを後にし、午後も早い時間にブリュッセル南駅へと帰ってきた。
 この日も夕方までホテルでゆっくり休憩し、ネットに接続して少し仕事だ。陽が落ちてからは、街へとビールを飲みに出かける。
 その日はまず、証券取引所の近くにあるビアカフェ、ル・シリオ(Le Cirio)へと向かう。名物ベルギー料理のシコンのグラタンを注文、メニューからまだ飲んでいないビールを物色して注文する。
 食べて飲んだ後は、夜の街を散歩。いろいろなお店を覘いて回る。ちょっと歩き疲れた頃に、ア・ラ・ベカス(A La Becasse)へと向かう。このア・ラ・ベカスは、ブリュッセル滞在中に何度も訪れたビアカフェだ。この店のランビックは、まさに絶品。陶器のボトルに入って出てくるが、シャンパンともワインともつかない、まろやかな味と香りで、すっかりファンになってしまった。
 それにしても、賑わっているのはイロ・サクレ地区など観光客が多いグランプラス界隈だけではない。夜、ホテル近くのSt. CATHERINE大聖堂の近辺を歩いても、早い時間からビアカフェやブラッセリーでたくさんの地元の人が飲んでいる。老いも若きも、女性も男性も、みんながビールを飲んでいるのだ。それも外のテラスで。朝、ICに乗るために中央駅の構内を歩いている時でも、駅構内のビアカフェで中年のおばさんがビールを飲んでいたりする。僕は、こんなにたくさんの人が一日中ビールを飲んでいる国があるなんて、想像もできなかった。ベルギーはビール好きには天国だ。本当ににいい国である。
 
 次の日に僕は、再度タリス号に乗ってパリへと向かった。その後2日間滞在したパリの街については、とりたてて書くほどの話はない。
 
※5日目に飲んだビール
・St.raffeHendrikブロンド(St.raffeHendrik醸造所)
・St.raffeHendrikブラウン(St.raffeHendrik醸造所)
・St.Feuillien(ル・シリオ)
・Affligen(ル・シリオ)
・ランビック(ア・ラ・ベッカス)
 
■その6
 
 ベルギーはビールの国だ。国内には約120社もの醸造所があり、ビールの銘柄は800種類にも上る。ビールの製法だけで400種類以上あるというのだから驚きである。今回の旅行で飲んだのは、約30~40種類だが、もっと多くの銘柄を飲むために再訪しようと考えたくらいだ。
 ベルギービールには、大きく分けて、英国スタイルのエール(Ale)系とラガー(Lager)系、そしてランビック(Lambic)系の3種類がある。エール系は上面発酵ビール、ラガー系は下面発酵ビール、ランビック系はベルギー独特の製法で作られる自然発酵ビールだ。
 エール系の代表は、トラピストビールやホワイトビールで、ベルギービールの中でも非常に多くの種類を占めている。ラガー系はいわゆるピルスナータイプだが、これは日本では一般的だがベルギービールとしてはあまり多くはない。
 そしてやはり、ベルギービールの最も特徴的なカテゴリーが、ランビックである。グーズ、クリーク、ファロなどの種類があり、非常に味わい深いビールだ。 空気中の野生酵母を使う自然発酵ビールの起源はエジプトやメソポタミアにまで遡ると言われているが、現在では事実上ベルギーでしか作られていない。今回の旅行でもっとも美味しく、しかも印象に残ったビールが、ア・ラ・ベカス(A La Becasse)で飲んだランビックである。
 
 そしてベルギー料理も悪くない。なぜかビールに合う料理が多い。Moules au Vin Blanc(ムール・オ・ヴァン・ブラン):ムール貝の白ワイン煮、フライドポテト添え、Carbonnades Flamandes(カルボナード・フラマンド):牛肉の黒ビール煮、Chicon au Jambon(シコン・オ・ジャンボン):シコンのグラタン、Waterzooi(ワーテル・ゾーイ):チキンと野菜のクリームシチュー、St.oemp(ストゥンプ):野菜のピューレ、Anguilles au Vert(アンギーユ・オ・ヴェール):ウナギのグリーンソース煮…などがよく知られているが、基本的にはシンプルな料理が多い。「煮た料理」が多いのも、アメリカあたりとは違うところである。さらに、ハムとチーズとパンが美味しいので、サンドイッチ類で十分に満足できる。特に生ハムやサラミは非常に美味しいと思った。
 あと不思議な食べ物に「アメリカン」と称するサンドイッチがある。これは「ビーフのタルタル」と書いてあるのでどんなものかと思ったら、「マヨネーズであえた生のハンバーグ」のようなものだ。このペースト状の「タルタル」がパンに塗りつけてある。
 もう1つ、「ベルギー・ラッキョ」(ネーミングは僕だ)も面白い。これは、小指の先ほどの小さいタマネギ(…だと思う)を酢漬けにしたもので、日本のラッキョウのような食感がある不思議な食べ物だ。最初は「なんだこりゃ」って感じだったが、ビールによく合うので、慣れたら食べられるようになった。
 
 今回ベルギーを旅して、あらためて「ベルギー」という国、そして「ヨーロッパ」について考えた。
 ベルギーという国は、近代国家としての建国の歴史は浅いが、ある意味でヨーロッパの中心であり、ヨーロッパの象徴的な部分もある。まず第一に、EUやNATOの本部があるため、象徴的な意味ではなく実質的な意味で統合ヨーロッパの中心だ。そしてベルギーは、国土は小さいが社会的なインフラが整っており「豊かな国」だ。工業が盛んで、伝統的なマニュファクチュアも生きている。守るべき中世のキリスト教文化も、しっかりと残している。ブリュッセル市内にはたくさんの古代ローマの遺跡があって、しっかりと保護されている。そしてベルギーは、典型的な多言語国家だ。何から何まで、「いかにも西欧的な国」である。
 
 ベルギーは建国の歴史が浅い。しかも第一次、二次世界大戦で大きなダメージを受けた。にもかかわらず、なぜこれほど豊かなのか。
 フランドル地方は9世紀頃から毛織物工業で栄え、またブルージュ(ブルッヘ)を中心にハンザ同盟諸都市との交易で栄えたという歴史もその大きな理由だろう。しかし、やはり現在のベルギーが繁栄している最大の理由は「植民地経営」にある。あの有名な探険家スタンレーをコンゴ川上流地域に送り込んだレオポルド2世は、「遅れてきた帝国主義列強」として、既にイギリス、フランス、ポルトガル、オランダなどが分割し尽くしていたアフリカで植民地経営に乗り出した。1885年にレオポルド2世個人の所有地としてコンゴ自由国(後にベルギー領コンゴ)を領有したのである。そのコンゴ川上流地域は予想外に資源の宝庫であり、レオポルド2世は原住民を過酷な労働で働かせながら、ゴム、象牙などを根こそぎ収奪し続けたのである。従わない原住民には手首を切り落とすなどの過酷な刑罰を科し、19世紀末から20世紀初頭にかけて虐殺された原住民は数百万人から一説には1千万人以上にも及ぶと言われている。
 
 本章の冒頭で触れた「闇の奥」は、イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)が1899年に発表した作品で、コンゴ川流域での実体験を元に書かれ、西洋植民地主義の暗い側面を描写した小説である。この作品の舞台であるコンゴ自由国で行われた原住民に対する苛烈な搾取政策は、当時ですら欧州各国からの国際的非難の的になり、「闇の奥」はその象徴とも言える作品となった。
 この苛酷な植民地支配が、現在のベルギーを支える「莫大な資本の蓄積」を産んだ。現在のベルギーが誇るダイヤモンドもチョコレートも、しょせんは植民地経営の産物である。ブリュッセル市内はもとより地方都市も含めてベルギー国内のいたる所に建つレオポルドビル2世の銅像…、これを見て現在のアフリカに住むコンゴ王国の末裔たる人々は何を想うだろうか?
 さらにベルギーは、1960年のコンゴの独立に軍事介入し、ケニアのジョモ・ケニヤッタ、ガーナのエンクルマなどと並ぶアフリカ独立運動の英雄であるルムンバの暗殺に関与し、コンゴ独立派に対するとんでもない虐殺をやってのけた国でもある。「ロマンチックな国ベルギー」という言葉で観光旅行に出かける日本人のうち、いったい何人が「ルムンバ」の名を想い浮かべるのだろうか?
 
 ベルギーの各所で見られる「歴史的建造物」や「歴史的な街並み」についても、思うことがあった。確かに、ベルギーを始めとするヨーロッパ諸国には、中世の面影を色濃く残す歴史的建造物や街並み、そして都市がたくさんある。ブルージュ(ブルッヘ)のように1つの都市全体が中世の面影を残している例も多い。これらをもって、ヨーロッパに「中世の歴史ロマン」を感じる人は多い。しかし僕は、ヨーロッパの「中世」という時代に、ほとんど何のロマンも感じない。中世のヨーロッパは、世界の中でも発展が遅れた後進地域であり、しかもカトリック教会の価値観に支配された暗黒の時代である。
 ベルギーに限らず、ヨーロッパの中世の歴史的建造物と言えば、教会や修道院を初めとするキリスト教施設か、さもなくば城など軍事的建造物が多い。僕は日本で寺や城を見ても別に感動しないように、ヨーロッパで教会や城を見ても特に感銘を受けない。
 実に16世紀以前のヨーロッパは、世界の中では後進地域であった。まずは経済的に見て大きく遅れた地域であった。例えば「ハンザ同盟」などと言っても、13~14世紀にかけてハンザ同盟が扱った全商取引高は、同じ時代の中国(南宋)1国が扱う貿易額の10分の1にも満たないとの試算がある。ハンザ同盟の都市として頂点にあった時代のブルージュ(ブルッヘ)の人口はわずか数万人であるが(当時のヨーロッパでは人口が2~3万人もいれば大都市である)、同時代の南宋の首都である臨安府(杭州)の人口は120万人を越えている。その生産力や経済力は比較にすらならない。アジアとイスラムを中心とする世界全体の経済から見れば、当時のヨーロッパは「辺境の地」に過ぎなかった。
 
 さらに、中世のヨーロッパは、経済的、文化的に後進地域というだけでなく、加えて野蛮で蒙昧な地域であった。むろん、ルネサンスを含む中世ヨーロッパの各所で見られた叡智や文化を馬鹿にしているわけではない、野蛮で蒙昧というのは、あくまで同時代の東洋圏やイスラム圏と比較した相対的な話だ。これはキリスト教が大きな影響を与えている。「キリスト教文明」という言葉があるが、ヨーロッパの中世を見る限り、「キリスト教」は見るべきほどの文化や文明を生み出してはいない。教会の権威は「固定した単一の価値観」をもたらし、その結果、キリスト教を基盤とするもの以外に「文化の多様性」を生み出し得なかった。ヨーロッパ中に溢れる宗教建築に宗教絵画や壁画、宗教書…そんなものがまともな文化とは到底思えない。というか、多様性がまったくない。実際にルネッサンス以前の中世のヨーロッパの絵画を見ればよくわかる。ベルギーで見たフランドル派の絵画なんて、どれもみなモチーフは同じ。ルーベンスもファン・アイクもメムリンクも、キリストだの聖母マリアだの、似たようなモチーフの絵ばかりで、美術に詳しい人間でなければ誰が誰の作品やら見当がつかない(稀にボッシュのような毛色の変わった画家もいるし、宗教画ではない絵を描いた画家もいるが)。別に宗教絵画にケチを付けているのではなく、作品制作の基盤となる文化が基本的に同じだということを言っているだけだ。
 一方で、同時代の東洋やイスラムでは、ヨーロッパとは比較にならないほど多様性のある文化が生まれ、栄えた。文化に多様性のないヨーロッパの中世は、魅力のない世界だ。だから僕は、ヨーロッパの中世の文化を過大評価はしない。
 
 そんなヨーロッパだったが、大航海時代、産業革命、市民革命、植民地時代を経て強大になった。現代では「世界の価値尺度となる文明」を謳い文句にしているし、キリスト教文明なるものも「良識」を謳い文句にしているが、それはちょっとどうかと思う。ヨーロッパの良識やら、常識やらは、まあ歴史的に見ればいいかげんなものである。ビクトリア王朝時代のイギリスなど、国家を挙げて「海賊」を生業にしていた国である。インドを領有化し、アヘン戦争を起こし、産業革命以降の野蛮で攻撃的な政策によって近代帝国主義国家へと変貌を遂げたに過ぎない。ドイツもフランスもイタリアもオランダも、そしてベルギーもみな似たような国である。ベルギーはコンゴでルムンバを暗殺したが、同じアフリカでは、例えばイギリスはケニアで、フランスはアルジェリアで、ベルギーと全く同じように「独立指導者を片っ端から殺害する」ことをやってのけた。ケニアでマウマウ団を虐殺したイギリスや、アルジェリア独立戦争、インドシナ独立戦争で残虐の限りを尽くしたフランスが、19世紀初頭にはベルギーによるコンゴ統治を残酷だと非難していたのだから、まあお笑い種だ。
 
 今回のヨーロッパ旅行は「ビールを飲む旅」に徹したつもりだ。一方で僕は、始めて訪れたベルギーの街を歩きビールを飲みながら、ここに書いたようなとりとめのないことを考えていた。
 やはり旅に出ると、それがどんな目的の旅であっても、いろいろと物を考えてしまう。旅は思索することで深みを増すし、自分が少し成長したような気にさせてくれる。

次へ…

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