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旅が教えてくれたこと (6) 1983年夏、ニューヨーク

■その5

  さて、僕がその時期にニューヨークに行った理由でもある「ビートニク」についてだ。
 実際に当時ニューヨークで生活して感じたのは、ビートニクがアメリカの文化に与えた影響は、想像していたよりも、もっと遥かに奥深く、幅広い…ということだった。そして、ビートニクの影響が最も強かった、というよりもビートニクがそこに住む人の骨まで染み付いている街こそがニューヨークだった。ビート・ジェネレーションの作家たちが好んだ「ポエトリー・リーディング」の活動は、あちこちで息づいていた。例えば、先に書いた80年代のクラブカルチャーでは、僕もよく通ったロキシーやダンステリア、マッドクラブやリッツなどで隆盛を極めたが、こうしたクラブではダンスミュージックをバックに、バロウズによる詩の朗読などが行われたりもしていた。そういえば、バロウズの詩とロックの融合は、90年代のニルヴァーナあたりもやっていたから、今後も続いていくのかもしれない。そういえば、先に書いたABC No Rioでは「ギンズバーグを語る夕べ」なんて催しも行われていた。白髪の老人と10代の若者がいっしょになって、コカインやマリファナを嗜みながらビートニクについて夜を徹して語り合ったりしていた。
 
 CBGBによく通ったのは、やはりそこがニューヨーク・パンクの聖地であったからだ。70年代初頭にはベトナム反戦運動が依然として高まりを見せていた。主にウェストコーストでは、反戦・平和を表現するためのロックが、60年代末期からの隆盛を続けていた。こうした状況の中、アメリカで「物質から精神へ」という文化が最初にロックの形で表現された始めたのは60年代末から70年代の初めだ。それが西海岸では初期のグレイトフル・デッドに代表されるサイケデリック・ロックであり、東海岸ではニューヨーク・パンクだった。60年代末から70年代初めにニューヨークのイースト・ビレッジに登場したパンク・ミュージックは、1940年代から活動していた詩人のアレン・ギンズバークや、小説家のケルアック、アートのアンディ・ウォホールらによるビートニク・ムーブメントをも背景にした、極めてスピリチュアルなロックだったように思う。1940年代から連綿と続いたビートニクは、現代にも通じるスピリチュアルな人間探求の試みだったのかもしれない。また、アートからファッションまで、ライフスタイルへのメッセージを含んでいた点において、非常に「ロック・ミュージック」の本質に相通じるのを持っていたのだろう。ニューヨーク・パンクがニュージャンルの音楽として商業的に成功したかという点はさておいて、多くの人に影響を与えたサブカルチャーそのものであった点では、まさしく僕が感じる「ロック」だった。
 
 ニューヨーク・パンクは、内省的で、音楽的で、詩的だと思う。例えばニューヨーク・パンクの代表的な存在であるパティ・スミスが、若い頃からドアーズ、ベルヴェット・アンダーグラウンドが好きだったというのは納得できる。彼女は、最初は詩を書いて朗読のライブをしていたが、ある時ギターをつけて朗読したのが後のバンド結成のきっかけとなったそうだ。そういえば、パティ・スミスは現在も活発に活動していて、アルバムもマイペースで出している。
 1960年代後半のニューヨークで、アート・シーンと密接な関係をもっていたルー・リードとジョン・ケールが中心となって「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」が結成された。彼らのサウンドはウェスト・コーストのサイケデリックと異なり、ヘロインの影響が大きく、退廃的・自虐的で、人間社会のタブーを丸裸に描いたものだった。このアートと音楽との融合のカルチャーは商業的には成功はしなかったが、後の音楽シーンを含めたニューヨークのカルチャーに多大なる影響を与えた。その後、元ヴェルヴェットのジョールのプロデュースによってニューヨーク・ドールズが生まれたのだ。
 
 話を旅に戻そう。
 1983年のニューヨークでの夏から秋は、街を歩き、面白そうなイベントや店を探し、話題のオフオフブロードウェイの舞台を見たり、夜は安いバーやクラブで飲んで、そんな感じで毎日が過ぎていった。レイバー・デー(Labor Day)のパレードが終わって、「芸術の秋」なんて言葉が頭を掠め、時には近代美術館やメトロポリタン、グッゲンハイムやフリッツ・コレクションなどへも行ったが、特に夢中になるようなものはなかった。
 8月の終わり頃になって、タイムズスクエア・モーターホテルに1人の日本人がやってきて滞在し始めた。僕はあまり話すこともなかったけれど、ロビーで会うと彼の方からよく話しかけてきた。何でも芸大を中退して絵の勉強にニューヨークに来たそうだ。ダウンタウンの美術学校に通っているとのことで、一度冗談で僕の似顔絵を書いてくれと言ったら、僕は似顔絵は苦手だけど、学校で出来た友達に似顔絵がうまい奴がいるから連れてくるという。数日後、本当に連れて部屋にやって来たのは東欧系の若い男だった。クロッキーというのだろうか、5分ほどで似顔絵を描き上げてくれた。実際によく特徴を捉えていたので、部屋の壁にピンで留めておいた。その後、東欧系の画家の卵とは日本人がいないときにも時々会って、一緒にクラブを案内したりしたことを思い出す。
 
 そういえば、9月に大きな事件があったのを思い出す。あの「大韓航空機撃墜事件」である。1983年9月1日に、大韓航空のボーイング747がソビエト連邦の領空を侵犯したためにソ連防空軍の戦闘機により撃墜され、乗員乗客合わせて269人全員が死亡した…、あの事件だ。
 墜落した夜だったか、部屋でぼんやりTVを見ていたら、ニュース番組でアナウンサーがしきりに「Korean Air missinng」と叫んでいた。missinngしか言わないから、なぜ墜落したのかはわからない。いや墜落したとも言わない部屋で。翌日になってもmissinngと言っていたが、思えばこの時点では日米当局は007便がソ連機のミサイルで撃墜したことを知っていたわけだ。そして、ソ連機による撃墜がニュースで詳しく解説されるようになった頃、マンハッタンでは在留韓国人によるソ連大使館へのデモが起きてニュースになった。
 大韓航空007便と言えば、僕がニューヨークからの帰りに乗る予定のアンカレッジ経由の金浦空港行きの便である。当時、ニューヨークと東京を結ぶ便でチケットがいちばん安かったため、僕だけでなく日本人の多くの貧乏旅行者が利用していたと思う。撃墜された機体には「I LOVE NEW YORK」というステッカーが貼られていたそうだ。この便が墜落したのだから衝撃である。同じ便に乗るのが、何となく怖くなった。それで、帰路は同じオープンチケットで乗れるロサンゼルスからの便で帰ろうと思った。ロスまで大陸を横断してから帰ることに決めたのだ。
 
 秋が深まっても、相変わらず歩く、食べる、飲むの繰り返しで毎日だらだらと過ごし、それがまた心地よかった。秋が深まるセントラルパークでは、リスが拾った木の実をせっせと土に埋めていた。生めた場所をどうやって覚えているのか、見ていて不思議だった。ワシントンスクエアやグリニッジ・ヴィレッジ近辺も、落ち葉が舞う頃がいちばん風情がある。そう言えば、オー・ヘンリーが小説「最後の一葉」のインスピレーションを得たのもヴィレッジのタウンハウスだ。10月は、街を散歩していて気持ちのよい時期だった。
 なんとなく内省的な日々を過ごしていた気がする。しかし、そうした安楽で穏やかな日は長くは続かない。年の瀬が近づくに連れて、滞在許可の期限である6ヶ月が迫ってきたのだ。サンクスギビング・デーが近い11月末、僕はいったんタイムズスクエア・モーターホテルを引き払って、アメリカを出国することにした。出国先として決めたのはメキシコである。ビザ延長目的ならカナダへ行ってもよかったが、寒い時期なので暖かい方角へ行こうと思ったわけだ。こんな計画を立てた。まず、99ドルでグレイハウンドの1週間乗り放題チケットを購入する。1日目はニューヨークからマイアミへ向かう。マイアミで2日間過ごしてから、次にバスでニューオリンズへ向かう。ニューオリンズでも2日間を過ごし、その後エルパソへ向かう。エルパソから歩いてリオグランデを越えてファレスでメキシコに入国する…というものだ。
 そしてサンクスギビング・デーの前日の夜、僕は何人かの友人に別れを告げてポートオーソリティ・バスターミナルからマイアミ行きのバスに乗った。あの「真夜中のカーボーイ」のラストシーンように…
 
 さてこの時の旅には、メキシコ旅行、舞い戻ったニューヨークのブルックリンでの生活、旅の最後の西海岸での出来事など、まだまだ続きがあるが、その時の話はまた別の機会に書こうと思う。このあたりで、饒舌でとりとめのない話をいったん終える。
 
 それで、今この年になって考えると、この27歳の時の長旅は僕に何をもたらしたのだろう。何が変わったのだろう。明確な答えは出ない。確かにいろんなものを見た。いろんな人と会った。アメリカ、いやニューヨークという都市が持つ、文化の多様性、人種やコミュニティの多様性、人間の多様性、大都会の中の貧富の差、人種差別…などを、身をもって味わった。反面、当時から「だからどうした」という気持ちもあった。しょせん、1年近くアメリカでぼんやりと遊んできただけに過ぎない。
 この長旅が終わって日本に帰国したあと、僕は短い期間会社勤めをして、そして30歳前に自分で会社を起こし、結婚して子供も生まれ、現在に至っている。40年前のこの旅があってもなくても、僕の人生は大きくは変わらなかっただろう。でも、秋が深まるマンハッタンで過ごした内省的な日々と、当時のニューヨークの最新カルチャーの真っ只中で過ごしたという事実は、何か少し豊かなものを僕の精神に加えてくれ、その後の人生を楽しくしてくれたような気がする。
 お金もなく、安宿で暮らし、いつも裏通りを歩いていた僕は、サックス・フィフスアベニューやティファニーに代表される華やかなニューヨークの文化の内側には入れなかった。一方でどこからどう見ても「貧乏そうな東洋人」である僕は、治安の悪いロワーイーストサイドやウェストヴィレッジ、そしてブルックリンなどでは、街に溶け込み、誰とでも話すことができた。当時のニューヨークにビジネス目的以外の日本人はほとんどいなかったため、よく中国人と間違えられながらも、何人かの黒人やラティーノの友人ができた。タイムズスクエア・モーターホテルの隣の部屋のおばあさんも、僕が別れを告げた時には悲しんでくれた。
 
 その後、90年代以降にも僕は何度かニューヨークを訪れている。特に90年代、40代の頃にはサウス・ストリート・シーポート(South St.reet Seaport)の近くにある小さなホテル「BEST. WEST.ERN Seaport Inn」を定宿として、毎年のように冬のマンハッタンを訪れた。Seaport Innの東側の部屋の窓からは、夕日に輝くイーストリバーの川面と対岸のブルックリンのビル群が美しく、大好きなホテルだ。このホテルを拠点にしてロワーマンハッタン近辺で飲んだり、クリスマス明けのバーゲンで安くなった服を買いあさったりした。
 でも、1990年代以降のマンハッタンは、どこもかしこもきれいになり、物価は上がり、街角にはスターバックスが増え、はっきり言ってあまり面白い街ではなくなった。2001年に起きた9.11アメリカ同時多発テロ事件以後は、治安と安全がいっそう強化され、マンハッタン各所の再開発が急速に進んだ。おしゃれなエリアや店が増えるにつれて街からは猥雑さや多様性が消え、さらにニューヨークはつまらない場所になった。
 
 僕は、街角のいたるところ落書きだらけだった1980年代初頭のニューヨークが好きだ。スターバックスの苦いコーヒーよりも、デリでポットに入れて置いてある1杯50セントのアメリカンコーヒーを紙コップで飲む方が好きだ。
 秋が深まり寒さが増したマンハッタンの夜に、マンホールから上がる白い蒸気がネオンの明かりに浮かんでいる情景を思い出すと、それを見ている僕は、1983年、27歳の時の僕だ。

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