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好きなことを仕事にすることがなぜ難しいのか

そもそも仕事にして続けるとは

仕事って、自分が自分以外の人に見てもらったり可視化されたり、要は何かの成果物となってそれに対応する形で収入が入るっていうものなのだと思う。それが根本にある。

商売であれば、それは売り上げだし、教員だったらそれは授業そのものだし、生徒との会話だし、生徒そのものの成長が成果なんだと思う。


じゃあ人がそれぞれ持っている「好きなこと」って?

人によって本当にまちまちなんだけど、絵を描く・歌を歌うなど、初めから外化されるタイプの好きなことであれば、ある意味それが仕事にイメージチェンジするのが容易い。ただし、今度は成果をはっきりと意識して自分を律することが必要となっていく。それが仕事だからだ。そこの厳しさに耐えきれず、仕事にしない人が結局は多い。
一方、好きなことが完全に自分の中で完結するタイプのことだったら?例えば漫画を読む、とか、本を読む、とか、甘いものを食べて巡るとか、歴史を勉強してふむふむということとか。これって目に見えて何かが残るわけでもない。すること自体が、他者と共有できるものでもない。ある意味、内化すること、インプットすることと表現できる。


ここに、仕事との親和性の薄さを感じる。


私が苦しんだ理由もきっとそれなのだ。
私は歴史を授業で聞いて、自分の中で哲学として噛み締めるのはとても大好きだった。しかし、このことを仕事にするにはアウトプットし、それを成果としなければならなかった。例えばそれが、歴史教師の「授業」ということである。この成果を生み出すことそのものを「好きだ」と感じられない限り、この仕事は好きなこととしてしているものではない、ただの義務になってしまっている、ということなのだと思う。

逆算すると、その職業の成果を生み出すことを好きになれるか考える

私が、今、好きなことができていると感じているのは、歴史を勉強できているからではない。授業という成果を生み出すことや、生徒の成長に貢献するという成果そのものが楽しいからだ。歴史の勉強はもはやその手段に過ぎない。

この視点を除外したまま、「好きなことだから」という視点を持つのは危険だし、逆に、義務としてしか捉えられない時は、その成果を生み出すという活動をどうしたら楽しくなっていくのかを考えるのが早いのかもしれない。



そして、人生は続く。



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