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アラ還おじさんのMid Point(4)25年振りのバンド活動【苦悩と歓喜の大学時代】

前回の更新から1ヶ月以上も過ぎてしまいました。
日本への出張などもあり、あっという間に年越し新年となりました。
相変わらず拙い文章ですがよろしくお願いします。

いよいよ大学生になりました。
理工系学部でしたので授業や実験をサボることができません。
2年生、3年生までに終えねばならない必修科目も多く、レベルの低い高校から入学した自分としてはまずは授業についてゆくために予定した授業は全て出席しました。
同級生たちは皆サークルや同好会などに入る者も多かったのですが、僕は授業優先にしていたのでサークルには入りませんでした。
大学には「⚫︎⚫︎フォーク村」という音楽サークルもありました。
(名前は⚫︎⚫︎で伏せておきます、場所がバレちゃうので。。。)
1970年代のフォークブームの際、広島で大学生だった吉田拓郎率いる「広島フォーク村」という音楽サークルが有名でしたが、きっと同じ70年代にあれに肖ったものと思われます。

1年生の秋、大学の学園祭(僕の通っていた大学はマンモス校であったので学部毎に学園祭が開催されてました)で他のサークルに所属していた同級生に誘われて、最終日の打ち上げにも呼ばれて参加しておりました。
学園祭では先述の「⚫︎⚫︎フォーク村」だけでなく有志も含めてバンド演奏も盛んに行われておりました。有志参加のバンドはまあまあ上手かったのですが、正直いって「⚫︎⚫︎フォーク村」のいくつかのバンドは決して上手くはなく、「なーにが⚫︎⚫︎フォーク村だよ!完全に名前負けだな」と心の中で思っておりました。
打ち上げでは当時の風物詩として一気飲みも盛んで、今ではNGな状況でしたね。
僕の友人のサークルの打ち上げになんとあの「⚫︎⚫︎フォーク村」の連中も乱入してきました。酒の飲み方も酷いし、本業の演奏も酷いし、とにかくこいつらとは絶対付き合いたくないと固く固く誓ったのでした。

そのため学内ではなく、学外の友人やソロでの音楽活動を続けておりました。
当時は浜田省吾や佐野元春、尾崎豊などのメッセージ性の強いミュージシャンに影響されておりましたので、自分で作った曲もそんな感じのものばかりでした。
でも人前で発表する機会は殆どなく、家で当時バイトで稼いだ金で購入したカセットテープの4ch MTRでちまちまと宅録しておりました。
根暗ですねー

宅録したテープで出来が良さそうなものをレコード会社で当時盛んだった各種オーディションに応募しては落選、応募しては落選の繰り返しでした。

ところが3年生の12月に大学の地元の市の教育委員会が主催した音楽フェスティバルに応募してみたところ、何とテープ審査で合格し、そのまま本戦にも出場することになりました。フェスといっても一応はコンテスト形式であり、上位3組に最優秀賞、優秀賞、特別賞が授与されるというものでした。

僕が応募した2曲はドラムとベースの打ち込みに自演のギターとキーボード、歌とコーラスをダビング録音したもので、如何にもロックバンドサウンドでしたが、個人、ひとり参加でしたので本番ではアコギとハーモニカという70年代フォーク歌手を彷彿とさせるものになってしまいました。
もちろんアコギは打楽器のように叩きつけるようなストロークにしてひとりバンドぽくしたのですがハーモニカは失敗だったなあと思いました。

審査員には元クリエーションのギタリスト竹田和夫さんがいました。彼のコメントは今でも覚えております。お世辞に近い言葉だったのかもしれませんが、嬉しかったなあ。

「アコギにハーモニカのスタイルなのでフォークの人なのかと思ったけど、思いの他これはロックですね。でもスタイルが良くない。ただ歌詞の中で「×××」や「⚪︎⚪︎⚪︎」なんてところは「おっ」と思うところもあると僕は思いました。これからも頑張ってください」

まあ、要するに君はこれじゃダメだねってことなのかもしれないけど。
こんな感じですから見事な参加賞だけを貰って終了。
最優秀や優秀賞を獲ったバンドやソロの方々はそりゃもう略プロ級であり、自分が彼らと同じステージに立てたこと自体奇跡だったのではと思わざるを得ないものでした。

それでもこの大学3年生で出場したコンテストからもう一度音楽を真剣にやってみようと思い、友人のバンドとも対バンでライブを企画したりと3年生から4年生にかけて都内のあちこちでライブにも出るようになりました。
ただ、だんだん曲や詞が書けなくなってきたんですよね。元々音楽の才能も曲を作るセンスもないし、自作すること自体無理が出てきたようです。
大学4年の9月に友人のバンドと企画したフェス形式のライブの出演を最後に自作での音楽活動は辞めることを決意しました。

ところが対バンで知り合い、客としても見に行っていた友人のバンドのベーシストがライブ1ヶ月前に突然脱退してしまったため、僕にベーシストとしての加入の誘いがありました。
彼らを客として見てましたし、曲の入ったテープなんかも貰っていたのですが、まさかのベーシストとしての誘いです。最初は迷いました。
僕は既に就職先も決まっており、大学の卒業研究も12月までには終わり、あとは卒論を仕上げるだけの状態でしたので、バンドをやる余裕もありました。
ただ、就職後の赴任先は決まっておりませんでした。もしかしたら関東地方(首都圏)を離れる可能性もあるのでメンバーとしても長くは続けられないかもしれない。
そのこともメンバーには伝えましたが、彼らはそれでも良いから12月と2月のライブには一緒に出て欲しい。その後のことは決まってから考えれば良いよ。と言ってくれました。
この「殺し文句」に痛く感動した僕はバンド加入を了解して、人生で初めてベースを演奏することになりました。

ベースは初めてだったので取り敢えずはコードのルート音だけを弾くようにして、少しずつですが、3度音や5度音を加えてそれらしくするように心がけました。
それでもにわかベースですから下手くそですよね。

当時このバンドはオリジナルを演奏し、ボーカルが作詞作曲、サイドボーカル、ドラム、ベースそしてキーボード(といってもMIDIの打ち込み主体なので彼はちょっとだけ弾くという役目)の5人でギターレスバンドでした。
曲もニューミュージック系の爽やかラブソングなポップなバンドでした。

僕が加入する前はドラムも生ではなく打ち込みでサイドボーカルも不在。ボーカルが時々弾けないギターを持つという変則3ピースバンドでした。この変則3ピース時代に新宿のロフトの昼の部に出演したこともあり、昼の部では都内のあちこちにライブハウスにも出ていたんですね。僕もロフトは見に行ったこともあり、凄いなあと思っておりました。
ドラムは以前から対バンでフェス形式ライブで参加していた別のバンドから引き抜いたメンバーであり、彼と僕はこの12月のライブから初めて一緒に合流することになりました。

結局12月と2月の新宿アンティノックというハードコア中心のライブハウスの昼の部に出演。ポップなバンドであり、ハードコアライブハウスでバラードをやってしまう離れ業で髪の毛を突っ立てているオーディエンスを黙らせることに成功(?)しました。

そして3月、大学を卒業した僕は入社後の赴任先が千葉県内の工場勤務に決定して、晴れてバンド活動を4月以降も継続できることになりました。

就職してからもバンド活動を続けてゆくことになりましたが、活動には山あり谷あり、そして谷だらけという事態となってゆきました。

<(5)に続きます>

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