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痛くないなら死にたい時、本屋に沈む

「もし痛みの恐怖がなければ私は相当くだらないこんな理由でも命を断っていただろう」
―――勝手にふるえてろ 綿矢りさ(文集文庫p128)

こんばんは。最近は綿矢りさを読んでます。

中でも勝手にふるえてろとかかわいそうだね?とかがお気に入りになったんですが、その話はまた今度。


なにげなーくしにたーーいって感じる時とか思う時、何なら言っちゃう時、誰でもあるんじゃないだろうか。死って漢字には似合わないカジュアル希死念慮。友人曰く「ふっとここで人生終わっても別にいっかって思う」
モラトリアムしてる大学生で、でもそろそろ自分を社会に売り出さなきゃいけない世代だからか、或いは普通にコロナの所為か、時々そんなムーブになります。

そんな時、皆様どうされてます?
そんな時どうしたらいいのか、私はずっとわからなかった。
推しに没頭しても(まず熱意を傾けられる推しっていないし)親友や恋人と馬鹿話しても漂い続けるこの気持ち。

ところが最近2つの気づきを得ました。


1. 本屋の効用

最近新宿駅から直結で行けるブックファーストに行ったんですけど、最高でした。最高な点は話し出すと止まらなくなるからひとつだけ。
境目が曖昧なところ。
縦に長い本屋ってあんまりお目当ての階以外うろちょろしづらいじゃないですか。でもここは全部平面になってるから、なんのジャンルが見たかったんだっけ?と思いながら、ふらふらできる。色んな木が生えてる森だと思ってください。

お目当ての本を探しながらさまよってた私は、左端の長い壁を岩波文庫が埋め尽くしてるのを見た時、
いやいや死んでる場合じゃないって!!
って思いました。

できるだけ多くの本に触れたい。この眼で見てる世界とは違う世界を認識したい、構築したい。「良い」って何かを分かりたい。知りたい。

本の森で遭難しそうになりながら、本の海で溺れそうになりながら、いやいや生きるっしょ、と息し始めた感じでした。


2. 読書の肯定

今までも大きな本屋には何度も言ってたはずなんだけど、どうして今になってこんな心境になったんだろう。

よくよく考えてみると、それは最近やっと読書という趣味を肯定できたからじゃないかなあと思います。

他人に影響を与えてから死ぬのが私の理想です。たまたま親を選ぶくじ引きで良い引きしたから享受したこの人生で、社会に貢献するのは為すべきことだし、何よりチャレンジングで面白そうな目標だから。
でもこう言葉にするたびに、自分に嘘をついている気がしていました。ずっと何故か、動き出せなかった。

インターンの面接が爆死してから気づいたのは、私の人生の軸は2つあること。1つは上の。もう1つは本でも漫画でも映画でも、なるべく多くのコンテンツに触れて、自分なりに色々考えたり、ちょっと人に紹介してみちゃったりしたい。
端的に言えばこんな感じのこと、ね。


読書という趣味を、ずっときちんと趣味だと言えなかった。インプットって程の意識もなかったし、アウトプットもしてないし、意味のない時間を過ごしてしまっている気がして、歯がゆくただただ現実逃避のための手段にしていた。

やっと、誰が何と言おうと、読書は私の趣味で、私の生きる意味の1つなのだと胸を張って言っている。


痛くないなら死にたい時、本屋に沈む


こうして生きる目的がいくつか見つかったところで、私はまたささやかなことでカジュアルにしにたあいと言うのでしょう。


そんなとき今度から、本屋に行こうと思う。図書館でもいい。
本の山に沈んで、苦しくなりながら、一冊に手を伸ばして気道を確保する。生きるよね、そりゃ勿論ってなってゆっくり浮かび上がってこよう。


誰かに何かを伝えるつもりでこれを書いたわけじゃないけど、何があなたの生きる目的になってもいいし、趣味は何でも肯定していいよねってのは、誰かにあげられる言葉になったかな。




それじゃあ、また。


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