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2021年04月、シンエヴァンゲリオン劇場版を観た話

2度目の緊急事態宣言が明け、ぼんやりと、しかしザワザワした日々を過ごしていました。
昨年暮れに患った左肺の気胸はその後、再発悪化することなく、どうにか身体は本調子を取り戻してきたように思います。
この4月。妻は育児休職から仕事復帰するための準備期に入り、子供達は保育園通いを始め、平日毎朝のタスクは、俄かに過密になっています。
私も、勤め先で管理職に昇格しました。もともとそう言った話は少し前に受けていたのですが、退院して出社すると、何の前触れもなく急に選考が始まっていて、トントンと話は進み、気付けば3月には役員と面接。
大丈夫だろうかこの会社は…、と思うことしきりなのですが、どうやらこの4月から、新入社員の部下を持つ身になりそうです。
本当に目まぐるしい。ちょっと前までは、まだ若手社員だったはずなのに(や、もう十数年も前の話か)。
 
そんな矢先、春先から公開され話題になっていた、シン・エヴァンゲリオン劇場版を、妻と映画館で観てきました。
今回「シンエヴァ」を観て思ったことや、それに合わせて考えたことを、少しつぶやいてみたいと思います。
(ちょっとネタバレ要素が含まれます。ご了承願います)


観るに至るまでの経緯

公開初日2021/03/08にFBで呟いた私の一言、
「あー、エヴァ観てえなぁ」
対する、その時の妻の一言、
「そんなに観たいなら1人で観てくれば?」
子供2人の育児と家事に手一杯精一杯の妻からすれば、自分だけやりたい事考えられて良いわね、みたいなニュアンスもあったと思います。
まあ実際私も呟きはしたものの、観に行く機会はないと思っていました。
まあせいぜい、ブルーレイがリリースされたらアマゾンでポチるかな、くらい。
それが3月初旬の話。
 
慣らし保育が始まって、上の子も下の子も日中の保育園の生活に慣れてきて、そろそろ2人とも夕方まで預けられそうだと目処が立ったのが、4月中旬。
 
「来週平日に休み取ってさ、映画観に行こうよ。エヴァ観たい」
NHKのプロフェッショナルでやっていた庵野さんの特集を観て、妻が言いました。
もともと妻も学生の頃に「エヴァ」は観ていて興味があったのと、私が先だって呟いていたこともあって、やっぱり観たくなったのだとか。
5月から仕事復帰する妻としては、恐らく仕事が始まれば、今より更に忙しくなるので、慣らし保育で預けていられるこの約1か月が、羽根を伸ばせる最後の時間です。
そんな最中に、2人で映画か…何年ぶりかな。前に一緒に観た映画は何だったっけ。
私のほうも仕事に調整がきいたので、結局公開から1月余り、レディースディの平日水曜、朝イチの上映時間に、私と妻は子供達を保育園に預けた後、そのまま車で映画館に向かいました。


エヴァに対する私のスタンス「多分、ちょっと苦手」

ところで私、たとえばガンダムにはそれなり、いや相当にドハマリなのですが、エヴァンゲリオンに関してはそこまでのめり込めたクチではありませんでした。
無論、ほぼリアルタイムでエヴァを観てきた世代ですし、メカやキャラクターはとても魅力的でしたし、それまでのアニメにはない独特な雰囲気もあり、日本のアニメの裾野を大きく広げるキッカケになった作品だとは理解していますが、皆さんご存知のように世界考証や設定が難解な作品ですし、何より話が進むに連れてストーリー展開が暗い(笑)。旧劇場版に至っては、なんでこんなの映画館で観なきゃいけないんだと叫びたくなるほどに暗い!いや、酷いとさえ思った!(笑)。ですので、もの凄く嫌いな作品ではないけれど、そこまで何度もヘビーに見直すような付き合い方もしてきませんでした。


新劇場版が始まった頃の話。ドキドキワクワクさせてくれた「序」と「破」、バッサリぶっちぎった「Q」

新劇場版の話が始まって、劇場で「序」が公開されたのが2007年。社会人になって直ぐの頃だったと思います。確かガンダムUCもそのくらいから始まったのかな。マクロス・フロンティアの劇場版なんかもこの頃にありましたよね。
当時はまだ独身の実家住まいで、中高や大学の同期と連絡を取り合いながら、時々集まったり遊んだり、仲の良い友人とは映画をレイトショーで観に行ったりしていました。
「破」については噂で聞いて、どうやら富野の新訳ゼータほどにはパッチワークな総集編映画じゃなさそうだなと思い、よく映画を観に行く友人と、先ずはブルーレイで前作の予習をしてから、劇場に観に行きました。
結果から言うと「破」は、私にとっては、とても気持ちの良い映画でした。勿論TV版と大筋では同じ流れでしたが、途中から話の展開は私達が当時知っていた旧作のそれとは異なり、また作品にある雰囲気も全体的に旧作のように重苦しいものではなく、観た後の達成感や、続編への期待に自然と胸躍るような内容でした。
「これは30過ぎまで死ねないな」
冗談混じりに映画の後、友人とそんな事を語ったのを覚えています。
それから数年後、そんな気持ちは綺麗さっぱりと叩きのめされた「エヴァQ」の公開。今でも覚えてるな、口数少なく友人と映画館を後にした時のこと(笑)。
そして、そこから更に数年後、その衝撃を忘れかけていた頃に公開された「シン・エヴァンゲリオン劇場版」。
 

忘れた頃にやってきた、シン・エヴァンゲリオン劇場版


茫漠と心に広がる不安と、ほんの少しの期待。
平日朝の映画館は空いていました。
妻と2人きりで映画を観るとか、2人で過ごすというのが、そもそもかなり久々の事でした。
ネット購入したチケットを発券し、少しだけ館内をブラブラし、「シンエヴァ」のポスターの前でスマホでパシャパシャと写真を撮り、そろそろと客席に入りました。
平日なので客入りは少なく、座席はガラガラでした。指定の座席に座って10分くらい、ほどなく上映が始まりました。
 
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25年経って思う「エヴァ」って結局なんだ?

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン、ね」
しばらくは、何となく動き出せないような気分になっていました。
 
「皆様ずっと引きずったまま、本日ここに足をお運び頂きまして、誠にありがとうございました。ここで全て、これまでの煩悶はお終いとし、皆様をあるべき平穏にお返し致します。ありがとうございました、はい、どうぞー、みたいな感じかな?」
上映の終わった昼過ぎ、映画館から直ぐのとんかつ定食屋の2階座敷席で、オーダーしたロースカツを口に放り込みながら、私は呟きました。
あれから、TV版や旧劇からは、もう20数年が経っています。あの終わり方で納得・理解できなかったこと、作品のエピソードや、私達の抱えたトラウマみたいなもの、そうした全てを昇華させるカタルシスみたいなものは、確かに感じていました。でも何故だか、まだ腑に落ちないことがあるような、少し物寂しいような、変な気分。
 
「もう終わったよ、今さらオタオタしたって意味ないからね、はい、解散!みたいな。色んな意味で背中押されて店追い出されて、振り返ったらもう店はシャッター降ろして商売畳んじゃってるみたいな状態でさ」
「んー、分かるけどちょっとクドイ」
あれから20数年、似たような作品はいくつかあった。確か「エヴァ」の後にやったアニメのラーゼフォンやウルブズレインには、エヴァと似たようなコンセプトや話の流れを感じた記憶がある。同人誌やネットの個人がやるSS小説なんかでは、数多の「ありそうなエヴァ」を目にして、そのそれぞれに感銘を受けたり、こう言うのもアリだったんだ、と思わせてくれた。
でもそれらは全て、あの時「エヴァ」で感じた動揺やトラウマを払拭してくれるものではなくて、やっぱり「エヴァ」で受けたキズは「エヴァ」で解決するしかないと言うのが、どこかでずっと引っかかっていたように思うのです。
 
「あと、やってたことは結局大きな意味で焼き直しでしかないんだけど、丸くなったというか、優しいというか。どうしたの庵野さん、と思った」
「良いじゃん。製作者側も大人になっちゃったんでしょ。いつまでもトンガってられないよ」
 
妻は劇中、何度か泣いたようでした。
 
「大人になるか。そりゃ20うん年ありゃ皆大人にもなるわよね。色々あったし、もしあの時こうしていたら、とか私も思うこともあるし」
「たられば言ったってさ、9.11はあったし、3.11の地震は起きちゃったし、デヴィッド・ボウイもプリンスも死んじゃったし、俺と君は結婚して子供だっているんだし」
「全部なかったことにー、なんかできないでしょ。でもゲンドウくんはそのタラレバで、今ある世界ひっくり返そうとした訳でしょ。大人になりなさいよって」
「あの人マダオだからなあ、ここでも」
「マダオ?なにそれ」


子供が成長と挫折を繰り返し、それでも自分を認められるようになること≒大人になること?

「エヴァ」とは、或いは「シンエヴァ」とは、どういう話だったのだろう。
細かな設定や世界/科学考証は正直難しすぎて、その道の解読本とかムックを読込まないと理解できません。社会人子持ち子育て中の身には、そんなことに時間を費やせる余裕はない。そういうことではない、私が感じた、この映画・作品の、本質は。
「強いて言うなら、自己肯定感の低い子供達が、認めてもらうため、自分を受け入れて貰うために、大変な思いをする話だよな。怖い思いも痛い経験も沢山して、少しずつ周りから認められて、なんとなく打ち解けて、やっと自分って何なんだろうとか、地に足のついた考え方・生き方を自分でもできるんだ、って思えるようになり始めたら、急に手のひら返されて、自分のことを認めてくれて仲間だと思っていた人達から一方的に拒絶されて。もう何もしたくない、何もしなければよかったって絶望して。でも旧劇はそこまででブッツリ終わっちゃうんだけど、シンエヴァはその後の話もしていて。間違えてもいいんだ、自分で生きるということは、間違えたら責任取って、それでも前に進むってことなんだ、そうしたらいつか、自分で自分の事だって認めることができる…みたいなことを言っているのかな。中高は日陰者で、大学入学してデビューしちゃったけど、恋愛とか学業とか就活とかで挫折しちゃって、社会人になったらもっとバキバキにへし折られちゃって、あーもうやってられない死にたい、とか思ったけど、結局それでも歯食いしばって前向いて生きてきて、だから今があるんだ。みたいな?」
「途中から自分のこと話してないですか?」
観たくない黒歴史とか、つらい過去とか、沢山あるかもしれないけど、それでも生きていたら良い事あるぜ?とでもいうのか。
絶望しているのは、シンドイ思いをしてきたのは、お前だけじゃないんだぜ。俺たちもそういう思い、知ってるから、分かるよ。
共感性というのか。緩やかな、密やかな優しさは、絶望して塞ぎ込んでいる時、見つけにくいものだけれども、そこかしこに、確かにあるんだと思わせてくれる。
いつかは誰でも年を重ねて、子供を持つ人は、本人が望もうと望むまいと、子にとっては親になる。
その子供だって、少しずつ成長して、挫折も経験して、その中で自分を見つけて、やがて大人になるーー、なれるはずだ。
だからそんなところでグズグズしてるなよ。
「シンエヴァ」は、子供が大人になるまでの過程を描いた映画だったのかな、と思いました。旧劇場版では絶望して打ちひしがれて終わりだったけれど、新劇場版ではその挫折から持ち直して、もう一度自分の意志で歩んでいく人々の姿が描かれている。なんてプリミティブで前向きなテーマだろう。

「や、シンジ君が立ち直る経緯の描き方が、やっぱり唐突だったなと、俺は思うんだけどね」
「立ち直らないと話が進まないからね、色々制約があるんだし、お話だからいいんです」
「あとはやっぱり空白の14年間のことをもうちょっと丁寧に描いてほしいというか、もうスピンオフでも良いから」
「ちょっとー、さよならエヴァンゲリオンはどこ行ったの?」

3度目の緊急事態宣言を目前に

日々、気に食わないことはたくさんある。子供が親の言うことを聞かないとか、朝の準備がスムーズに進まないとか、それで通勤が遅れるとか、夕方の愚図りと家事への対応とか、夜早く子供が寝ないとか、そういうそれらを一身で捌いてきた妻のイライラが一方的に私に向けられて鬱陶しいとか。このコロナ禍な一体いつまで続くのか、とか。上手くいかないことだってある。仕事でミスをして迷惑かけたり、妻から頼まれていた用事を忘れて怒られたり、色々やりたい事はあるのに消化する時間がなかったり。
思うように回らない日々に、段々と憂鬱が積み重なっていく。今の私と妻と子供達の生活は、楽しい事も沢山あるけれど、そうでないことも時々ある。
「私が会社復帰して、あまり調子良さそうじゃなかったり、ダメそうだったら言ってね」
「そういうのはさ、お互い様でしょう。やりながら、やってみて考えていくしかないさ。そんでいつか、今よりマシな大人になってやるのさ」
「大人、ねぇ。いつまで今の気持ちを保てることやら」
晴れの日もあれば雨の日もあるんだ。
先ずは今を一日一日精一杯やって、また少ししてから立ち止まって考えてみよう。
それで良いじゃないか。

ニュートラルに率直に、やっぱりまだ消化し切れてません。でも今このタイミングで観ることが出来て良かった。考えは上手くまとまっていないけど、これで全てが終わったとも思えないけど、エヴァに対して感じていた不安とかトラウマみたいなものは、今回の劇場版で整理できたように思います。
惜しむらくは、こう言う想いや感想を、直に友人や仲間と語り合う機会が今はないことですが、それももう少し我慢していれば、いつかきっと昔話になるでしょう。


「さようなら、エヴァンゲリオン。でもいつか、また会えたら良いな」

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