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「人への思いやり」に惹かれたり、萎えたりする

程度の低い人間とはなんなのか。

命の重さに優劣はなく、上も下も存在するわけがない。
一人一人が良くて、そこに対して、価値判断は必要ない。
それぞれの人が完璧な状態であって、素晴らしい。

私だってそう思いたい。
自分の思想がどうかと聞かれれば、上記のように答える。
人の中に優劣はないと。

でも、私は自分が、ひどく程度の低い人間に思えてならない。
「人への思いやり」が私は、人として何よりも大切だと思っている。
だから、知らず知らずに、それを持って人を測ってしまうんだ。

人に優劣はないと思えど、正直なところ私は、
「良い人度合い」というのはあるように感じている。
様々な尺度を持って行っていることだけれど、
「人への思いやり」を持って私は、人を測ってしまう。

人への思いやりが深い人に対して私は「良い人だな」と思うし、
そうでないように(私が見ているのはその人のほんの一部だけれど)見える人に対して、(フィットする言い回しではないけれど)
程度が低いように感じる。

なんでこの投稿を書こうと思ったかといえば、さっき、
作業しているスタバで、理不尽に店員さんに怒っている女性を見たからだ。
ふと思う自分がいる。
「人を思いやれないのかな。」

とか言いながら自分自身も往々にして人を思いやらない態度をとる。
今日も昨日も、手続きのために市役所や銀行に行ったのだが、
しつこいくらいに国籍や在留カードの有無について聞かれる。
(日本国籍だけど顔は外国人だから仕方ない、のだが。)
ああ、うんざりだ、と思った瞬間、その人が悪気がなくても
トゲのある態度を相手にとる。
こんな私は価値が低いな、と感じる次第である。

社会的な人の価値を決める尺度について

この資本主義の中で言えば、
お金や社会的地位という測りやすい尺度によって
人が決められているようだ。
なんともチープだと思う。
その一方で、不安だからと私もそれを集めたがることもある。

皆なも気づいているだろうが、一人ひとりと向き合ってみれば、
人ってすごく素敵な生き物であって、
案外、人が人を見るときに
お金や社会的地位なんて気にせずに人付き合いをするし、
別にそこで一緒にいる人を決めたりなんてしていない。

でも、社会システムという視点で見てみると
大概の場合、お金と社会的地位によって測られていく。
就活とか、なんともわかりやすいもので、
金を生み出しそうな奴が、高い社会地位についていくのだ。
会社の中に入ってもそうだ。

普段の生活、そこまで意識している奴なんて少ないだろうが、
(どうやら一部の婚活市場では、ギラギラらしいが)
社会の全体間でみれば、金と社会的地位を集中して持っているものが
資本主義を創っているので、当たり前ながら、
それによって人の価値が判断されているように見える。

まあ、これに関してはみんな気づいているが、
案外、チープなもので、人の価値は決まらない。

思いやりという指標

話は戻って思いやり。
これによって私は人の価値を測っている。
知らず知らずに。

人は人といるのが常でして、価値判断を加えない、なんてのは
よっぽど自分が確立した成熟した人でないと難しいように思う。

人によってその尺度は違うだろう。
容姿とか、熱量とか、面白さとか、
数も多すぎだし、微妙なニュアンスすぎて表現しづらい。

おそらくだが、その指標に対して、
自分自身が満たしていると感じる時、
あるいは圧倒的に満たせていないと感じる時に、
その指標が持ち出されるように思う。

私の場合は「人への思いやり」に対して欠如を感じるから、
それを指標に人を見てしまう。

ドラえもんの場合

例えばドラえもんの有名なセリフに、
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。
それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」
というセリフがある。
あの青年、とはのび太のことで、
そののび太を選んだしずかちゃんに対しての言葉である。
しずかちゃんにとって人を見る、
そして高い価値、というといやらしいが、
深く惹かれるかの指標(という言い方もいやらしいが)が
「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる」かどうかだったのだろう。

まあ、そんな感じで人は知らず知らずに価値を測っているんじゃないか、
というのが私の言いたいこと?である。

とはいえ複雑

上で私は「人への思いやり」で人を測ってしまうと言った。
事実、私の周りの人たちはとても思いやりにあふれた人ばかりである。
とか言いながら、「おいおい、もっと思いやりもとうぜ!」とか
感じる友達も、いなくはないかもしれない。
そんなに簡単な指標だけではない。

この人の明るいところが圧倒的に好き、
この人の深い思想に惚れ込んだ、
この人の穏やかなところは変えがたい。

数値化なんてできるわけもないけれど、
「人への思いやり」によって、惹かれたり、萎えたりするけれど、
他の複雑な絡み合いによって、
私は惹かれたり、萎えたりする。

人それぞれだけれど、私はそう。
人をそうやって測る、というか見てしまうこの自分くらいは、
なんだか自然な気がして、受け止めてみる。

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