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ラブレター・フロム・自意識過剰

手紙を書くのが苦手だ。

一応、文章を書くのが得意な方に入る人間だという自負はある。なんなら職だし。しかし、手紙が本当に無理だ。ダメなのは書く過程のことでもあり、できあがった成果物の方でもある。たぶん自覚だけでなく、他者からの評価もそうなると思う。

自分がこんなにも書けない理由を考えてみたのだが、文章を綴る時にTPOに合わせて硬度やアプローチを変えていること、これが原因のように思う。それは誰だってそうだよと言われればそりゃそうなのだが、文章を書く習慣がある人ほど、そこを意識的にやっているように思う。

一言一句に神経を行き届かせようとすればするほど、文章は「堅く」なる。これは文章のくだけ具合、ということではなく、書き手のコントロールが及ぶ度合いの話だ。

これが、「飾らないこと」「心がこもっていること」が重視される手紙と非常に折り合いが悪い。もう身体と頭がオートで、体裁の整ったもの、場の空気にあったもの、求められる答えを書き上げようとしてしまう。私の心の思うままに書きました!みたいに見せる方法がいまいちわからない。というか「見せる方法」って何だよ。その時点で失格です。

小学校の頃はできた。社会科見学に行った先にお礼のお手紙を書こう、みたいなやつだ。あれは手紙と言いつつ、実際のところはただの感想文だ。工場のおじさんだけに伝わればいいと思って書いてはいない。学校の先生に評価され、工場の壁に貼られて社員に共有されるための文章だ。難しいのはパブリックに公開されるものではなく、プライベートな贈り物としての手紙なのだ。

手紙のもう一つ面倒なところは、要らぬ誤解を招かない方が望ましいというところだ。できる限り、相手にこちらの伝えたいことが間違いなく伝わるようにしたい。報告書ではなく、ウェットな感情を書くのならなおさらだ。相手に伝わる情報がこちらでコントロールできるよう、文言に気を遣うことになる。

おわかりいただけるだろうか。つまり心のこもった、そして込めた心が伝わる手紙を書くためには、自意識の薄い文を、的確に伝わるよう調整して書かなければならない。この矛盾する思想を両立させるのはとんでもなく難しい。

手紙を書くのが上手な人間は、こういうことを考えずに書けるんだろうな。もう駄目なんですよこちとら。一回手が止まったらもうおしまい。一応、こんなに相手に失礼なこともないと思っているから、手を止め、悩み、最終的に時間切れになって、そこからはもう手癖で体裁を整えて完成とする。完成させることはできる。しかしそれは、宛先の人に心を託す文章ではなく、この世界のどこかにいる“先生”の概念みたいなものに褒められるための文章なのだ。

いや、きっと他の文章が上手な人間たちは美しい手紙が書けるのだろう。感受性が死んでるのを文章力とハッタリでカバーする人生を送るタイプの人間は、もう擬態の精度を上げていくより他はないのです。


今日はここまで。ありがとうございました。



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