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『死ぬまでにどれだけの美しさと出逢えるか』

 なんと悲観的なタイトルであろうと、我ながら思う。おとなしく美しいものをたくさん見たいという風に言えばいいものを、そうはしたくないと言って聞かない私がいるのだ。

 今日は、その原因を探っていこう。もし、このお話にお付き合いいただけるようなモノ好きな方がいらっしゃるのなら、きっと私たちはいい友人になれるだろう。

死は常に隣り合わせ

 死は突然やってくる。死は予測できない。これらは間違いではなく、きっと正しいのであろう。ただ、私の感覚とは少しばかり違う。私にとっての死は、常に私と隣り合わせという感覚なのだ。

 私が動こうと、動くまいと、それは必ず私の傍にいる。私がどこへどう進もうと、それは必ず影のようにひたひたとくっついてくる。その影が私を飲み込む時、きっと私は死ぬ。そんな感覚を私は持っている。

 なぜ私が、このような感覚を抱くようになったのか。それは、おそらく私の兄の存在が大きい。私の兄といっても、私は会ったこともないし、もうこの世にも存在しない。私が生まれる頃には、既に亡くなっていた。

 私が兄の存在を知ったのは、10歳になる夏のことだ。父の書斎に勝手に入り、いつものように本を漁っていた。そこで見つけたのが、ひと昔前の子供の名前候補一覧がまとまっている本だった。何故その本に興味を持ったのかは覚えていないが、書棚の奥のほうにしまってあった見覚えのない本に、きっと興味が湧いたのだろう。

 パラパラとめくっていくうちに、一枚の紙切れが挟まっていることに気が付いた。その紙切れには、私の名ではない名が、丁寧な文字で刻まれていた。それを見つけた瞬間に、私は何故か急に怖くなり、そっと紙を元の位置に挟んで、本を奥に戻した。それが兄の名だと知るのは、そう遠くない日であった。

 8月某日、私は10歳になった。幸福なことに、私の両親は、私の誕生日を本当に嬉しそうに祝ってくれる。その日も例外ではなく、ケーキとプレゼントを私は無邪気に楽しんでいた。その日がいつもと違う日になったのは、夕食後の夜のことである。

 両親がいつになく真剣な表情をしながら、そして、静かに痛みに耐えるような面持ちで私にゆっくりと話をしてくれた。思えば、私に物心がついてから、両親が目に涙を浮かべているのを見たのは、あの日が初めてだったように思う。

 「君には、今はもういないお兄ちゃんがいる。今はまだ、それがどういうことか分からないかもしれない。ただ、君がここまで無事に育ってきたのは、きっとお兄ちゃんが見守ってきてくれたからなんだ。お兄ちゃんの名前は、…。…くんは、きっと君のこれからの人生も見守ってくれるはずだ。だから、君も思い出すことがあれば、…くんのことを想ってあげてほしい。」

 静かだが、その言葉には強い意志があった。幼心ながら、これはきっと大切なことなんだということだけは、理解することができた。そして、…という名が、いつか見つけた紙切れに刻まれた名と同じ名であったということは語るまでもないだろう。

 全てを理解するには程遠いにしても、私の人生の中で「死」という概念が、初めて浮き彫りとなって目の前に現れた瞬間だ。

 私が死について考えるようになったのは、そこからである。本を読み、哲学を学び、倫理を学び、法律を学び、経済を学び、医療を学び、祖父の死を経験した。

 私の考える死の定義についてはまた追々お話するとして、ここまで話してきた体験を元に手に入れたのが、「死は常に隣り合わせ」という感覚なのである。

 突拍子もないところから飛んできて、あれよという間に終わるものではない。それは常にすぐ傍にいて、いつの日か必ず私を攫っていくのだろう。そしてそれは、この文章を読んでいる貴方にだって、例外なく当てはまる。

だからこそ多くの美しさと出逢いたい

 いつからか、私は美しいものに対して、もっと知りたい、出逢いたいと感じるようになっていた。私の思う美しさとは何なのか、これについてもいつかお話するとして、今は美しさに出逢いたいと感じるようになったのは何故なのか考えてみることとしよう。

 私は幼いころから、静かな場所が好きだ。本を読むことや、音楽を聴くことも好きだった。スポーツも好きだが、ブロックで黙々と何かをつくったり、綺麗な石を見たり集めたりすることも好きだった。最近で言えば、美術館を巡ったり、宝石やアクセサリーを眺めたりするのも好きなことになっている。

 人との関わりで言えばどうだろう。私は昔から、他人との時間と自分の時間を明確に分けるタイプだった。人とのお喋りは好きだが、自分のために取った時間をマイペースに過ごすことを楽しんでいた。頭の中で日々の出来事を反芻し、思考の海に潜り、空想の世界を飛びまわっていた。それは、今でも変わらない。

 これらに共通していることは何か。その答えこそが、「美しさに出逢うこと」であり、私が求めていることなのだ。

 美しいものには、そこに必ず静けさが宿る。明鏡止水という表現が最適だろう。そこから何か一つでも違ってしまえば波が立ち、その美しさは損なわれてしまう。そして美しさは、それがいつか消えて失くなることを恐ろしいと感じさせるような、凛と張り詰めた緊張感を持つ。

 美しい表現、美しい旋律、美しい造形、私が美しさを感じ取るその対象は数多に及ぶ。ただ、この世界からいくつの美しさを見つけられるかは分からない。それでも私は、この世界に散らばり隠れている美しさに気づき、それを味わう瞬間に喜びや楽しさを覚えているのだ。

 多くの人は、この人生を楽しみたいと考えるだろう。筆者の私も、その中の一人だ。そして、どうせ生きるのであれば、「楽しい」を多く経験したい。それは何度だってあっていいし、何度でも体験できたほうが喜ばしいはずだ。

 だからこそ私は、できる限り多くの「美しさと出逢うこと」を求めているのだと思う。そして、その楽しさを味わうために、できる限り多くことを知り、見つめ、考えていきたいと感じるのだろう。

 目の前にある美しさに気づき、出逢うためには、美しさと対立する醜さも受け止めねばならない。どんな事象も、視点が変われば当然ながら見え方は変わってくる。沢山のものの見方を知り、沢山のことを知る中で、美しさと出逢う。その出逢いを追い求めているのだ。私の行動の原点は、そこにある。

死ぬまでにどれだけの美しさと出逢えるか

 ここでタイトルに戻ってくる。私にとって「死は常に隣り合わせ」であり、多くの「美しさと出逢うこと」を求めているからこそ、「死ぬまでにどれだけの美しさと出逢えるか」というタイトルが生まれたのだ。

 これは、私の人生のテーマであり、目標であり、道標である。何かに迷ったときは、ここに立ち返ることになるのだろう。

「死ぬまでにどれだけの美しさと出逢えるか」

 そう自問しながら、今日も私は、美しさを求めて、生きていく。

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