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番頭サン

 視線の脇に流るゝ番頭サンを見たとき、さァそれこそ我々の間で噂されていた美女の横面、あの色白、細い鼻筋、気品溢れた揺るゝ黒髪、つい下駄箱の鍵を渡し忘れてしまいそうになる私に向かって「そっちゃ、女風呂!」などと喝を入れるゝその活気、あァ君は間違いなく我々の間で噂されていた美女であるようだが、何故だ、何故、番台に座るゝその姿勢からは、この閉鎖寸前とも思える銭湯『湯吉』への一直線に向けられたる愛が、君に見惚れてついつい女湯ののれん• • •を潜りかけた私に向けられたる軽蔑が見えるゝ十二月の雨の日、頬を赤らめながら口にした「……ごめんなさいぃ」は情け無くも、雨音の隙をするすると這って行き、まァこんな都合の悪い声ほど聴き取り易いとはよく言ったもので、君の切れ長な目がホラ段々と厳しさを失いつつあるように、固く結ばれた口先が次第に柔らかさを得るように、俯き加減の哀れな男が彼女のたった一言(そそっかしいわね!)で救われた気分となるのは、やはり君が我々の間で噂されていた美女である証だと思われるが、辱めを受けた熱湯地獄、左右を恰幅の良い爺様に挟まれている湯船のなかでも、私の赤面たる先程の所業が思い出されてしまって、はからずも思考は喉から放たれるゝ喜劇、やれ「何故、何故だ、里穂さんが番台に立つのは何故だ!」と叫びたるゝ惨劇、まこと不条理な世であることには違いないが、そこで壁を隔てたるゝ女湯が「誰かあたしを呼んだァ?」などと、返事をしないことがまさに取り返しのつかない悲劇、麗しき美女が銭湯の番台? 客が寝静まった頃に彼女は赤富士の壁画に見守られながら、額に汗してブラシを走らせるのだろうか、または誰もない湯船に一人きりの世界、自らが鳴らしたるゝ桶の響きを目一杯に堪能すると見え、長い黒髪からポツリポツリと滴る汗が、君の身体、それも艶やかな曲線をまるで長旅の如く、パリはシャンゼリゼの街灯を濡らす夕立の如く、男の限りなき妄想回廊を抜けるゝことなき湯煙は果たしてどこまで駆り立てるのか、私をいつまで弄ぶのか、やァただれた赤富士が独占たるゝ妖艶な彼女の危うい腰付き、脳を支配する甘美な蜜は、まさしく我々の間で噂されていた美女そのものであるし、また湯船を出て一番、右手でフルーツ牛乳を手に取り、左手で君の手を取る私が「君の瞳に乾杯!」などと洒落込めば、これ以上、落ちるゝことなき私であるから、君の気を上手いこと引けるのではないだろうか、そんなことを考えながら風呂を出た。
 我々の間で噂されていた美女、既に帰宅す。

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