見出し画像

30年ぐらい前の私は今とは真逆の人間でした

秋分の日でなんとなくゆったりした朝なので昔を思い出してみようと思います。

30年ぐらい前は、まだまだ田舎の方には終身雇用の考え方が残っていたし、私自身、最初に入った会社にずっといるものだと思っていました。その後、バブル崩壊の波は田舎の方にも押し寄せてきて、知人の会社などでは従業者に一ヶ月間の自宅待機を命ずるところもあったぐらいです。

20代前半は結構順風満帆

私の勤めていた会社は、主に官公庁のシステム開発を受託していたため、あまり影響はなかったように記憶しています。

小4ぐらいの頃から漠然とプログラマーになりたいと思い、そのまま、実際にシステム会社に就職し、それなりに一生懸命仕事に向き合っていたと思います。

その頃は、IT業界は花形産業と言われていて、一見すると魅力的な業界なのですが、やっていることはとてもとても地味でした。想像できないかもしれませんが、プログラムは紙に書いていたのです。紙に書いて、先輩に添削してもらい、OKが出たらコンピューターにプログラムを入力するというものでした。

なぜ、このようなことをしていたのかと言うと、当時はパソコンではなく大型汎用機と呼ばれるものが主流でした。この大型汎用機は金食い虫でしたので、動くか動かないかわからないプログラムをむやみに実行するわけにはいかなかったのです。

あの頃のコンピューターの性能は、iPhoneの1000分の1よりもさらに低い性能だったと言われています。あの頃から言えば、現代は本当にSFの世界だと思います。

最初の1年程度は大型汎用機の仕事ばかりしていたのですが、会社でも少しずつPCの案件が来るようになりました。私は独学でPCで扱う言語を知っていたため、PC開発の要員へと移行していきました。官公庁もかなり先進的な取り組みをする県でしたので、面白い案件が徐々に増えてきました。現代で言うところのBIツールのようなものも開発しましたし、全市町村と県庁を繋いでデータをやり取りするようなシステムも手掛けました。今のように高速回線が存在しませんでしたので、96kbpsという信じられないほどの低速でデータのやり取りをしていました。

少しずつ、会社の中でもそれなりに重宝される存在になってきたころ、大型案件の要員に取り立てられました。その案件は社運をかけるほどの案件で、私以外の要員は30代以上の精鋭ばかりでした。その中に25歳前後の私が放り込まれ、1つのサブシステムを丸ごと任されることとなりました。

その頃からです。私の中で何かが変わってきました。

あれ?これ人生のレールが敷かれてしまったんじゃない?

世の中はバブル崩壊後、絶対に潰れないと言われていた大企業がバタバタと倒産し、終身雇用も崩壊、暗黒の時代へと突入していました。通常であれば、大抜擢されたことはある意味将来も保証されたようなものだったのです。

しかし、私は半年考えたすえ、その会社を辞めました。まわりからは私の行動はあまりに謎で理解不能だったようです。

あの頃何を思っていたかと言うと「先の見えた人生なんてつまらない。なんでこんなぬるま湯につかってなきゃいけないんだ」ということです。思い上がりも甚だしいのですが、実際、そう思っていました。特に会社はバブル崩壊の影響も受けることがあまりなかったので尚更だったと思います。

今思えば、本当にあの時辞める決断をして良かったです。

そこからは人生は本当に激変しました。それまで基本的にはコンピューターしか相手にしてこないような生き方でした。それでも会社の看板があればなんとか通用してきたのです。しかし、会社の看板が無くなると何者でもない自分しか残りませんでした。

その後は、居酒屋の店長をやってみたり、ミシンを売ってみたり、他にもいくつか色々な仕事をしました。兎に角、一度、IT業界以外の仕事もやってみたかったのです。

成長のきっかけは人との出会いでした

その中でも、居酒屋の店長は価値観を大きく変えました。1年程度はやっていたのですが、「私」に会うために来てくれるお客様が何人かいました。時には家族を連れて来店してくれたこともありました。とてもとても嬉しかったです。人とのコミュニケーションが楽しいと思えるようになりました。

IT業界とも完全に縁を切ることはできず、離れても、離れても、何度でも呼び戻されました。3度目でやっと気付いたのです。

ああ、私はまだ、ITから離れてはいけないんだなあ

2つ目の会社は、民間企業の受託開発を行う会社でした。私は仕事を通じて「社長」と呼ばれる人たちに会う機会が増えてきました。官公庁の仕事とは違って、工夫次第で企業の行く末にも影響を与える、とてもエキサイティングな仕事でした。

システム開発から、最終的には業務改善を行うコンサルティングをするようになりました。業務改善を行うレベルになってくると、当然、社長ともマンツーマンで話す機会が増えてきました。業務改善はあくまでも経営を補完するためにあるからです。初めの頃はまったく通用しませんでした。知識レベルでは社長と対等に話すことは出来ないのです。

実践を通じて色々と学ばせてもらいました。何年かした時、ふと気がついた瞬間がありました。会議中、うちの提案が今ひとつなので、社長も納得せず、非常に雰囲気が悪くなった時がありました。その会議で、私がある提案をした時に社長が突然にこやかに迎合してくれました。あの瞬間はいまも脳裏に焼き付いています。私が認められた瞬間だったと思います。

その後は、会議に掛ける前に社長と大体の方向性を決めてから、全体会議で話すようにしました。もちろん、その当時の上司などは知る由もないことです。大事なことは会議の前に決まるもんです。

30代の10年間は本当に学びの多い10年だったように思います。尊敬できる人との出会いが多く、完全に私という人間が再構成された時期でした。結局のところ、人の成長は誰と出会うかで違ってくるのだろうと思います。自分を引き上げてくれる人との出会いがとても大切ですし、また、そのような環境に身を置くことが重要だろうと思います。

40代後半の今は、30代の頃とはまた違った私になっており、10年おきぐらいに再構成はなされていますが、その話はまた機会がありましたら書いてみようと思います。


この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,418件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?