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私史上最も男らしい男はゲイだった

男らしいとは何なのか。
女らしいとは何なのか。

私は男らしい、女らしいという言葉が嫌いだ。生物学的差異に注目しての男らしい、女らしいという使い方ならまだしも、小さなコミュニティ内でしか使われていない普遍的でもない尺度で、社会的な意味での男らしさや女らしさを定義することに何の意味があるのだろうか。私は保守的な田舎で生まれ、保守的な祖母と父親に、女の子なんだからああしろ、女の子だからこれをしちゃいけないと言われて育ってきたから、普通の人よりもこのような言葉に嫌悪感を示すのかもしれない。

欧米を初め先進国ではフェミニズム運動が活発化し、日本でもジェンダーレスという言葉が流行ってきた今、性別の意味が変わってきたかのように思える。しかし世界を旅していると、それは貧富の差や社会福祉問題をある程度解決し、ジェンダー問題に取り組める余裕のある一部の国に限ったことであって、世界のほとんどの地域ではまだ従来の伝統的な男女観が蔓延っていることに気づく。日本でもまだ、私が幼少期を過ごしたような田舎では、男たるものこうあるべき、といった考えを持った人が一般的だ。

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さて、初めの質問に戻るが、男らしいとは何なのか。女らしいとは何なのか。私自身は、社会的な男らしさや女らしさに何の意味もないと思っているが、前述のような従来の男女観を持ち合わせている人は、おそらく男らしさを勇敢さ、物理的ならびに精神的な強さ、感情を見せないこと、野心家などと紐付けているように思われる。反対に女らしい人とは、感情豊かで優しく、平和主義であると考えがちだろうか。

このような考えを持っている人にぜひ紹介したい人がいる。私の親友の一人、リリーだ。

親友リリー

私とリリーはジョージアの首都トビリシのホステルで出会った。彼は20才のアゼルバイジャン出身のタトゥーアーティスト兼グラフィティ・アーティストだった。なぜか馬が合った私たちは、出会った日から数ヶ月間毎日一緒に過ごしていた。一緒にご飯を食べて、街歩きして、彼がグラフィティアートを制作するときは、私も一緒に参加した。ステータスを全く気にしない彼は、アゼルバイジャンでホームレスだった。しょうがなくホームレスをやっているというより、家を持つ必要性が見つからないから、好んでホームレスをやっていた。時間を守るのが苦手で、喜怒哀楽ーーというより喜哀楽ーーが激しかったけれど、本当に偏見なく誰にでも愛情を振りまく彼は憎みたくても憎めないみんなの弟のような存在で、彼がくれた愛情に応えるかのように、みんなが彼のことを愛していた。

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そして彼はアーティストであると同時に、LGBT活動家だった。彼自身もゲイでクィアで非常に中性的な魅力があった。私は彼と一緒に隣り合ってメイクをしたり、服を貸しあったりするのがとても楽しかった。彼は母国アゼルバイジャンでのLGBTの権利拡大のために奮闘していると私に教えてくれた。LGBT活動家は彼の他にもたくさん知っているし、そもそもバックパッカーのコミュニティはLGBTに限らずマイノリティに寛容だから、もちろん彼の活動は称賛されるべきだと思ってはいたけど、この時はまだ彼の活動がアゼルバイジャンでどれだけの意味を持つかに気づけていなかった。

アゼルバイジャンの旅

ジョージアにいた私は、彼がアゼルバイジャンに一時帰国するタイミングで一緒にアゼルバイジャンに行くことにした。ここで彼が直面する現実を知ることになる。

私は彼と一緒に首都バクーの地下鉄に乗っていた。すると4人組の20代の男の子たちが私たちの方を指差して笑ってきた。ああそうか。まだまだ多様性が大々的に認められていないアゼルバイジャンでは、明らかにゲイな見た目の男の子が、アジア人の女の子と電車に乗っているなんて、差別の恰好な的なんだろうな。その男の子たちの好奇の目に触発されたのか、電車中の人たちが私たちの方を見世物を見るかのように見てきた。それだけではなく、街に行けば警察だって彼を見て笑い、差別的な言葉を叫んできた。その言葉は私に向けられていなかったけれども、心が苦しくなった。私は性的マイノリティではないけれども、小さい頃から変わり者と言われ続け、自分が自分でいることが認められない辛さは痛いほどに知っている。


男らしさ

私も世界中で差別を受けてきたが、基本的には今はもう気にならないし、気にしないようにしている。差別をするような無知な人の意見なんて気にしてる余裕がないし、幸い世界最強パスポートを持っている日本人でありながら日本への執着が全くない私は、その特権を利用して差別の少ない場所で、そんなことを気にせずに暮らすことができる。いわば、差別者から逃げて生きることを選択できる。

しかし彼は違うのだ。彼は私の目を見てはっきりと、
"I wanna change it"(これを変えたいの)
と言った。
私にはそんな世界を変える勇気はない。生まれ育った日本の多様性への不寛容さに対しても不満がたくさんだけれど、それを自分の力で変える勇気も気力も力量もない。私はそこで生きないことを、逃げることを選んだ。だからこそ、日本以上に多様性に不寛容で宗教的価値観が根強く残っているアゼルバイジャンで、自分のためだけでなくこれからの未来のためにLGBT権利を求めて戦う彼を尊敬、応援している。

彼は私が見た中で、逆境で戦う最も勇敢で強い男だった。彼を「男らしくない」と笑う人たちが言う「男らしい」の定義にピッタリと当てはまる。彼らが言う「男らしい」の定義は「勇敢さ」や「強さ」であって、自身は弱い者を集団でいじめておきながら、自分たちの方が「男らしい」と言うのは相当矛盾しているのではないか。

彼自身は自分を男らしいとも女らしいとも思っていないだろう。彼は彼でいるだけだ。私も彼が勇敢だから、強いから男らしいとは思わない。でも彼を「男らしくない」と笑う人たちへ、あなたたちが勇敢さと強さが男の定義というのなら、リリーは君たちの何倍も男らしいんだよ。

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