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無知の暴力

人間対ウイルスの壮絶な戦いが繰り広げられている。グローバル化が進んでいる現代においても、多少の方向性の差こそあれ、ここまで全人類が一丸となって何かに取り組むことも珍しくはないだろうか。最終的には地球全体が存続の危機に曝されるであろう地球温暖化問題や、コロナウイルスよりも多くの死者が出ている飢餓問題にも人類はここまで真剣に取り組んではいない。

人間対ウイルスの構図ではあるが、中にはウイルスに加担しているのではないかと思わざるを得ない人もいる。自己中心的に外出をする人々、データの偏った見方を伝えるメディア、自身の利益の追求を止めない政治家など、人間のモラルや知力はこの程度かと落胆させるような人がたくさんいる。そして私が思うにその最たる集団が反ワクチン派だ。現在はまだコロナウイルスに対するワクチンは開発されていないが、人類の知能の最高峰を集結させたこワクチン開発の取り組みが報われた際には、無知な反ワクチンはこの人類の努力を無下にし、前述の集団とは比べ物にならないほどに私たちを落胆させるのだろう。

「共存」を唱える自然派

私は普段はヒッピーの集まるコミュニティで生活している。ヒッピーと一言で言っても多種多様で、様々な異なる思考やライフスタイルを持つものがいるが、その中でも比較的大多数を占めているグループが「自然派」と呼ばれる人たちだ。ヒッピーは元々物質的な現代社会に警鐘を鳴らした人たちという歴史的文脈もあり、ヒッピーの多くが自然を愛しているのは納得がいく。自然派の中でもベジタリアンや動物愛護者からクリスタル・ヒーリングに至るまで細分化されている。

彼らは可能な限りの自然との共存を目指している。自然との共存とは、人間の恣意で環境を壊すことをせずに、他の生き物の命を無闇に奪わないということだ。しかし中にはこの「可能な限り」というコンセプトを理解できずに、または意図的に理解せずに、人間も自然の一部ということを忘れて人間vs自然の対立だと思い込む人がいる。この思想を持っている人は、人間が進化の過程で蓄積してきた英知を忌み嫌うのだ。人間も自然の中で生かされているにもかかわらず、人間と自然は相反するものとして、あるいは自然を超越している存在として考える方が非常に傲慢な態度のように感じる。彼らは自然との「共存」を目指しているが、この人間は自然に包括されていないという意識の方が、私には反自然的であるように思われる。

この行き過ぎたナチュラリズムの典型例が反ワクチンおよび反西洋医学主義者だ。彼らはよく副作用を引き合いにだし、ワクチンや西洋医学の危険性を議論するが、私はそれは後付けの屁理屈にしか思えない。認証されているワクチンは副作用の程度ももちろん考慮された上で認証されている。その恩恵と副作用を比較すれば、その医療を受けない方が自身の健康を脅かす可能性が高いのは一目瞭然だ。彼らがこれらに反対するのは、その副作用が怖いからではなく、人類の発明=反自然=悪という価値観がまず先に存在しているからだ。私も自然を壊す大量生産消費社会や過度な肉食、車社会、行先顧みない持続不可能な発展には反対だ。しかし、自然を壊す行為と種の存続を脅かす存在を取り除くことには大きな差がある。自身の生命の存続を脅かす存在に危機を感じないことは、自然界に存在しているものとして非常に不自然で、それは自然と「共存」しているというより、自然に淘汰され殺されている。そして、生物としてのヒトは、それでは生き残れない。

無知による弱いものいじめ

彼らが無知に基づいて自然との「共存」を求めれば求めるほど、人間vs自然という皮肉にも不自然な構図が出来上がり、彼ら自身が滅んでいくのならば、それはそれで構わない。彼らは信じたいことを信じる権利がある。しかし、今回のような感染症の場合、彼らの誤解や自身の行為の影響を考えられない無知さは、他人に害を与えることになる。

私はグアテマラの小さい村で、あるイギリス人の女の子に出会った。この街には数え切れないほどのヒッピーが住み着いている。彼女も布切れのようなドレスにドレッドロックといった典型的なヒッピーの装いだった。

彼女と出会った時、私の彼はジアルジアという寄生虫由来の病気から回復したばかりであり、この病気について彼女と話す機会があった。ジアルジアは発展途上国では非常に一般的な病気で、私も罹患したことがある。この寄生虫病はヒトや動物の糞や吐瀉物を介して感染し、症状は主に、寄生虫が体内に住み着くことによって引き起こされる下痢や嘔吐、過度のガスの発生によるお腹の張りと硫黄の匂いのするゲップだ。不快であることは間違いないが、抗寄生虫薬を飲めば数時間のうちに症状は落ち着き一週間もすれば完治するので、世界的には多数の死者が出ているものの、健康で薬が手に入る環境であればは怖がる必要はない。

しかしこのジアルジア、薬に頼らずに自然治癒も可能だ。体内にいる寄生虫によって引き起こされるということは、逆に言えば体内から寄生虫がいなくなってしまえば症状は治るのだ。つまり寄生虫が繁殖するよりも速いスピードで体内から排泄してしまえば、薬がなくても完治できるのだ。体力的にはしんどいが可能だ。

ジアルジアはヒッピーが好むようなインフラが整っていない発展途上国でよく見られる病気だが、自然との「共存」を唱えるヒッピーには、この後者の戦略を取るものも多い。「反自然」的な薬を嫌い、寄生虫とでさえも共存することを選ぶ。私が出会ったイギリス人の女の子もそうだった。彼女は自慢げに自然治癒したことを話していた。彼女によると「共存」は難しく、何度もこの病気が再発したらしい。しかし彼女にとっては再発ですら、ナチュラリズムの観点から見たら一種のステータスなのかもしれない。

それは「共存」ではなく「支配」であり、彼女のは馬鹿げていると思った。しかしそれ以上に彼女の行為が腹立たしかった。彼女が体内で寄生虫を殺してくれないせいで、彼女の便や吐瀉物の中で寄生虫は生き続け繁殖し、それによってこの病気に感染し苦しむ人が出てくる。そして体力のない、または薬を買う金銭的余裕のない人は、これによって一生が奪われてしまう。無関係な人が、彼女が気づかないところで被害に遭うのだ。そして普通、このような無知のしわ寄せは、弱者に向かうのだ。それは一種の弱い者いじめのようだ。彼女のような人は、自然との「共存」を謳うものの、自分とは異なる立場の人間のことを考慮しておらず、自然の一部としての人間同士の「共存」は無視している。

無知の暴力

彼女の例に限らず、コロナ禍以前から「反ワクチン派」という言葉をよく耳にしていた。一種の流行りのようなものなのかもしれない。彼らにも思想の自由がある。思想を強制する権利は誰にもない。しかし、彼らの無知、そして自身の行動がどのような影響を及ぼすかについての想像力の欠如は、彼らが見えないところで凶器となり、罪のない人に暴力を振るっている。だからこそ、反ワクチン主義の人々を流行の一種として見過ごすべきではない。コロナウイルスによってワクチンの重要性が多くの人の身に染みている今、多くの人に科学に対する無知の怖さを再考してもらいたい。

私は小さい頃にふと母親に「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞いたことがある。母親からは「将来の選択肢が増えるからだよ。」と言われた。確かにそうだ。知識があれば将来できることの幅が大きく広がる。しかし学ぶことの意義は、それだけではない。知識を盾にして自分を悪者や脅威から守ることができるからだ。そして同時に、その盾は他人を守ることにも使える。自分の大切な人を守るためにも、不用意に人を傷つけないためにも、適切な知識を身に付けるべきだ。

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