財布ないないないない!
予定通り目を覚ました朝だったので油断した。顔の赤みを治すのは一旦諦めて、今や男性でもお化粧をすることは珍しくないという噂を耳にしてから、要所要所でお化粧をするようになった。どれくらい気付かれているんだろう。どれくらい不自然なんだろう。他人の目をください。無理か。粗探しをもっとしたいのに、そんな時間はなかった。だらだらしすぎた。ちゃっちゃと全部済ませましょう。
筑波のとある研究所の見学に行く日だった。仙台駅9:22発の新幹線をえきねっとで予約してあった。バスで30分かかる想定で自宅を出発したいところ、8:50の時点でスーツに着替えている最中だった。なのに「ちゃっちゃと全部済ませましょう」くらいのニュアンスで大して焦っていなかったのは、タクシーを使えばいいと思っていたから。
あ、研究発表で使うHDMI変換アダプタ持ってるよな、と急に心配になって持ち物確認が始まった。
アダプタはあったが、財布が見当たらなかった。
そういえば昨日の夜、吹奏楽部の後輩たちと外食をして、その時も財布がなかった。家に忘れたんだと思っていた。しかし、今、家に無い。じゃあ大学の自分のデスクにあるのか…。大学までは30分かかる。ゆっくり体温が下がり始めた。財布の回収は諦めるしかない。
財布なしでそんな遠くまで行ったことないよ。不安すぎる。幸い、えきねっとでモバイルPASMOと紐付ける形で新幹線の予約をしていたし、今の時代全部電子決済でいけそうだけど、今回の場合はちょっとした綻びで全て崩壊する可能性がある。だらだらしすぎて、バッファがゼロになったから。
万が一訪問先の研究所に到着することが叶わなかった場合の言い訳を必死に考えながら、履きかけのスラックスを履ききって、靴下も履いて、全部サササッと済ませて、スッ……と外に出た。西向きの間取りは私を出迎える太陽を予想以上の明るさにする。財布を持たずにつくば駅を目指す冒険の幕開けだ。
大通りに出ると歩行者用信号がちょうど青になり、仙台駅方面の車線側の歩道へ渡ったと同時にタクシーが来た。示し合わせたかのようだった。すかさず捕まえて、今回の冒険の関門のひとつ、ペイペイが使えるか、を確認する。使えた。神様ありがとう。
車中、やはり財布が無いことで頭がいっぱいだった。血の気は引いてるのに心臓はバクバクしていて、そんな中、SNSで現状をひたすら実況することでどうにも落ち着かない気持ちを紛らわせていた。財布ない!やばい!怖い!みんな見てて!
仙台駅に着いたのは新幹線発車5分前の9:17。タクシーから出た瞬間、地面を踏みしめた足に違和感を感じる。靴下と靴を履き間違えていた。スーツなのに変な暗い赤色の靴下と黒い運動靴を履いてきてしまった。再び体温が下がり始めた。心臓は悲鳴をあげている。頭は妙に冴えていた。一度停止した足の回転は徐々にスピードをあげ、なんとか新幹線に乗ることができた。
結果から言うと、つくば駅には予定通り辿り着けた。財布がなくても全然なんとかなった。モバイルPASMOと、えきねっとと、ペイペイに感謝。この3つのどれかひとつでも欠けていたら無理だった。研究所では足元の不自然さは一切咎められることはなかったけれど、実際どうだったんだろう。他人の目をください。無理か。研究発表は普通にできたからよし。
帰りのつくばエクスプレスに揺られていると、向かいの座席の女性がお化粧をし始めた。スポンジを指にはめて、パタパタやっている。ちょっと前の自分だったら、ここでやるかね、と疑問視してしまっただろうが、お化粧によって初めて"より良い自分"を得たときの高揚と解放と救いが混同したような、心が軽くなるような、そういう気持ちを経験してからは、理解ができるようになった。というか、頑張ってるなあと思うようになった。みんな戦ってる。
22:00過ぎ。仙台駅に着き、財布なし研究所訪問の冒険は幕を閉じた。財布は普段使わない上着の中から見つかった。コンビニに行くのに一瞬だけ使ったものだった。
散々、財布がないことについて騒いでいたが、思い返してみれば、家を出たタイミングのあのタクシーに乗れていなかったら、たとえ財布があったとしても予定通りつくば駅には辿り着けなかったと気づく。もしあのとき違う靴を履いたことに気づいてしまったら、革靴に履き替えるのに要する数秒の遅延により、あの奇跡のタクシーには乗れていなかった。そもそも普段えきねっとを使わないのに、なぜ今回だけえきねっとを使って新幹線を予約していたのか…。色んな奇跡が重なっていた。でもなぜ今日なのか。普通こんなにうまくいかなくないぞ。ゾゾゾ…。
今回の冒険をこんなにスリリングにしたのは、財布がなかったことではなく、朝、だらだらしていたことだったと気づく。
刺激が足りない人は、朝だらだらして全部のバッファをゼロにしてみてはいかがでしょうか。
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2024年12月20日の日記