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必ず出てくる「自己責任」論と、もう一つの問題(久保田徹さんの拘束に対して)。

「自己責任だ!」と批判する前に

ドキュメンタリー映像作家の久保田徹さんが、ミャンマーで拘束されたという報道があります。このような際、必ず「自己責任だ!」という批判が一部で起こります。

ウクライナにおけるロシアの行為のように、ジャーナリストや誰かが拘束のリスクや危険性を負わなければ報道されず、誰もが知る事なく葬り去られる「事実」があります。拘束された方とは面識がありませんし、個別の事情は存じ上げませんが、「自己責任」論で批判をする前に、まずはどのような方なのか、どのような思いを持ってミャンマーで活動されていたのか、と知ろうとするところから始めたいと思います。

久保田徹さん(ドキュメンタリー映像作家)の過去の作品の一部が公開されています。ロヒンギャ問題に光を当てた"Light up Rohingya"はフルで視聴できます。

今後、この拘束された方に対して、様々な批判が形を変えながら量産されていくでしょう。「税金の無駄使いだ」「外交の足を引っ張るな」などはまだしも、噂レベルで拘束された方の過去を掘り返したり、人格批判なども一部で広がるはずです。すでにYahoo!ニュースのコメントやTwitterでは、自分の立場を明らかにしない無責任な批判が溢れています。議論に批判は欠かせません。一方で無責任な批判は議論を壊します。批判内容は、批判する当人の人格や寄って立つ考えを如実に示します。この事に私自身も含め多少自覚的になることで、建設的な議論が少しでも広がることを期待します。

批判者も問われている

「自己責任」を強調し、批判する意見はあって然るべきです。一方で、その際には同時に「自己責任」を問う批判者の「目的=目指すもの」も問われています。大抵の問題への批判は、その両極を把握し、その批判が寄って立つ目的の分類によって、両極の間に位置付けることで理解できます。

ただ拘束されないことが大切な目的であれば、クーデター後に渡緬し、デモを取材して拘束されるなんて自己責任だ、と批判することはできるでしょう。この対極は、軍事クーデターを起こし自国民を弾圧する独裁政権と、それに抗い自由と民主主義を求め行動する人々を取材することは、人類社会の発展や平和に不可欠なものだ、との考えです。両極の間の批判には「日本政府に迷惑をかけないこと」を目的とした批判、「現地の日本人社会に迷惑をかけないこと」を目的とした批判など、様々な派生があります。ここで大切なのは、その批判は、どのような目的を前提とした批判なのか、ということです。批判は、批判者の寄って立つ土台、立場を露わにします。

そこに「現地情勢への知見や理解が足りない」や「取材の仕方が悪かった」などの目的(What)ではなく、手段(How)を批判する意見が現れます。このグループの方は、まずは拘束された方の渡航目的や、目指していることへの批判者として立場を明らかにすべきでしょう。Whatを問うことなく、枝葉のHowのみを批判し始めると、大抵は批判のための批判に陥ります。

私は何(誰)かを批判する際は「私が大切にしたい事は何だろう?」「相手が大切にしたい事は何だろう?」と問う事から始めるよう心掛けています。私の始点は、ミャンマーが日本同様に平和で自由に暮らせる社会であって欲しい、という思いです。またミャンマーの民主化は日本の経済や安全保障、巡り巡って私たちの生活にも繋がる大切なことだと考えています。ですから、ミャンマーで起こっていることを取材し、私たちに届けてくれる報道は本当に大切だと思っています。

不確実性が高い現場のジレンマ

昨年「(私の)名前がミャンマー軍にリストアップされてる」との噂が立ち、急遽帰国することになりました。その際、ちょうど解放された日本人ジャーナリストの知人と同便になり機内で色々と話をしました。まさか私が?拘束される理由が見つからない、あるとすれば食糧支援のクラファンが勘違いされたくらい、と思っていましたが、ちょっと間違えば本当に拘束されてたかもしれない、と恐ろしくなりました。ミャンマーでは、何も無い所に煙は立ち、根拠のない疑いでも不当に拘束され得ます。その拘束される・されないの間にある差は紙一重で、運にも多分に左右されるのだろうと思います。

ミャンマーの現地事情をよく知る在緬記者の方なら、今回のようなリスクはとらないんじゃないだろうか、と勝手な想像を元に思う一方、組織に属さないジャーナリストの方々にしかできない取材や報道もあるだろうとも思います。不確実性が高い現場で確実性を求めれば、できることは極度に限られてしまいます。報道取材だけではなく、ビジネスにおいても同様であり、そのジレンマと常に対峙している方であれば思い当たるのではないでしょうか。

もう一つの問題

非難すべき出発点を忘れるべきではないでしょう。それは久保田さんを拘束し、暴力によって政権を奪い市民を弾圧するミャンマー国軍であること。一方で、解放交渉には、何かしらの軍への妥協やお土産が必要とされる可能性があります。表に出る事はないかもしれませんが、この点に関しての批判については私自身でも答えが出ません。

私は日本のミャンマー政策に下記の4つを求めています。

  1. ミャンマー軍関係者や関連企業への部分的制裁

  2. 国内外のミャンマー避難民への支援

  3. 自衛隊でのミャンマー 軍訓練生の受け入れ中止

  4. NUGとの対話と関係構築

久保田さんの解放において、ミャンマー軍への外交圧力が交渉材料にされる可能性はあり得ます。あくまで想像上の一例になりますが、日本ミャンマー協会の会長が渡緬して軍幹部と会い、解放条件として何らかの妥協(圧力強化を行わない現状維持も含む)を行い、それが軍系メディアによる軍政権の正当化の喧伝に利用される、などが考えられます。

「久保田さん解放の外交努力を!」と言いながら「軍に一切妥協するな、関係立ち切れ!」矛盾します。普段日本政府のミャンマー政策に批判的な立場をとる者として、国軍への何かしらの妥協を受け入れてでも久保田さんの早期解放を優先させるのか、これは「自己責任」論とは別の問題として向き合わなければいけないと思います。

ミャンマーでは今なお、1万人以上が拘束されています。国連の人権担当官によれば「クーデター以降2100人以上が殺害され、その30%以上は軍による拘束中になされた」と述べています。久保田さんの解放はもちろん、拘束されている全ての人々が解放されることを願うとともに、「自己責任」論による批判の前に、少し立ち止まって自分と相手が大切にしている事は何だろう?と問う、「議論の手前の余白」が広がればいいな、と思います。


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