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君とサザンとアブラのポートレート。


(注)以下のテキストは2020年1月にfacebookにアップしたもの。2019年末のサザンオールスターズ全曲サブスク解禁に触発されて書き殴ったものを大幅に改稿、加筆しましたものをさらに2023年11月加筆修正しました。

ボクにとってのサザンオールスターズで思い出すのが「アブラ」呼ばれた男の話である。
彼は立命館大学の音楽サークルに所属していた。
ロックコミューンというロック志向の音楽サークル。のちに「くるり」を輩出するこの集団はわかりやすくいうとストリートスライダーズ、SHADY DOLLS(代表曲は「ひとりぼっちの吉祥寺駅前」)に代表されるルーズなバッドボーイズ系のロックバンドのあのダルな雰囲気を想像して欲しい。なんせ新入生の勧誘などやる気ゼロ。勧誘期間、他のサークルはあらかじめ決められた場所でチラシを配布したりするものだが、当時のコミューンは違った。ただラジカセでストーンズの海賊ライブ盤やロバート・ジョンソンを爆音で鳴らし、サングラスで長髪の男達がルーズに煙草をすいながら無言で机に足をのっけてリズムをとっている。そんなサークルだった。

ちょうどボクが入学した頃、テイチクからコミューン出身のチキンダンサーズというバンドがメジャーデビューするタイミングだった。ちなみにその数年後、ボクの「フランス語1」講義で同じ落第生が在籍するノイズファクトリーがSONYからメジャーデビュー。ちなみにノイファクはコミューン出身ではなく、 New Music研究会出身。このサークル、ヘヴィメタ専門のサークルだった。メタルなのにNew Music、通称ニュー研である。入会資格が「夏でも革ジャン」「腕っぷし強いひと大歓迎」ときたもんだ。そういえば先日恵比寿ガーデンホールのTESTSET公演終了後にライターで元ロッキンオンの兵庫慎司さんと話してたら、元ニュー研だったそうで。「メタルって知らなくて入っちゃったんですよ。だからすぐやめました」って納得。

そんなダルでルーズでバッドボーイな雰囲気が充満する雰囲気の中でひとりだけ陽性な男がいた。
「アブラ」である。ちなみにこのあだ名はボクらが勝手に呼んでいたあだ名で、ほんとは本田という姓だ。

無精ヒゲでニカっと笑うと若き日の越前屋俵太そっくりだった。愛用のギターはサンバーストモデルのテレキャスター。白T、デニム。もしくは黒のチノパンをこよなく愛するCCR「雨を見たかい」が得意なヴォーカル&ギター。そんな彼は「あじさい」というバンドを組んでいた。ちなみにその「あじさい」のライバル的バンドが「華(はな)」。ストーンズ直系のルーズなロックンロールを得意とするこのバンドはアブラの「あじさい」とは対局的な音楽性だったな。白Tにデニム、もしくは黒のチノパンがルーティンなアブラのファッションは要するに80年代後期〜90年代初頭の桑田佳祐そのまんま、つまり完全コピーなわけです。もう初見で「こいつは桑田マニア」だとボクは認識した。そんな風体でママチャリを愛車に京都の街を疾走する彼の勇姿はまさにBORN TO BE WILD。わかりやすく例えると、かつてロッキンオンから渋谷陽一責任編集で刊行されていた雑誌「BRIGE」の1994年10月発行号の表紙の佇まい。白い長袖シャツ、もしくは白いTシャツでアブラはいつも立命館大学の衣笠キャンパスを闊歩していた。庶民派な匂いを絶妙に醸し出しつつ、「俺、アメリカン・ロックが好きなんだ」と公言するアブラからボクは目が離せなかった。なんせママチャリでキャンパス裏手の通用口に到着した瞬間から鼻歌でサザンの「恋はお熱く」を奏でる男である。そりゃあウォッチャーにもなりますよ。

ボクがアブラに着目したのはボク自身がむちゃくちゃサザン、特に桑田佳祐に傾斜した時期を過ごしていたからだ。「人気者でいこう」にヤラれ、桑田佳祐の初ソロ「Keisuke Kuwata」に両頬を引っ叩かれ、さらに「ポップスは哀しい」発言など含め、「ファンなんです」なんて言うことすらおこがましく、ひたすら神として追いかけていたほど崇拝していたから。氏の自伝的書でもある「ブルーノートスケール」と「ロックの子」、さらにそれを補完する資料としてサザンの関口氏のエッセイ「突然ですが、キリギリス」は何度読み返したかわからない。そんな単なるフリークのボクのアンテナにアブラという男が引っかかったのは「同好の士」「同じ穴のムジナ」な匂いを感じ取ったのだろうと思う。まだまだ時代はバブル全盛期。巷ではユーロビート全盛期でもあった。もちろんマッドチェスタームーブメントはすでに湧き上がっていたがアブラには関係なく「BORN TO BE WILD」やブルースブラザーズverの「Gime Some Lovin`」を汗だくで顔中をテカらせて嬉しそうにシャウトしていた。

アブラはCCRやステッペンウルフのカバーを多く取り上げ、ビートルズならば後期、しかもジョン・レノンの楽曲を嬉々としてシャウトしている男だった。なのでモテない。とにかくアブラ率いる「あじさい」というバンドは時代にはそぐわない70年代中期〜末期のオールドスタイルなロックバンドだった。そのうちアブラは91年、三回生も終盤に差し掛かる頃にオリジナル曲を作り始める。
ボクはそのお披露目を観るため、拾得というライブハウスまで足を運んだ。対バン形式でいつくかのバンドが出演していたがアブラのバンド以外まったく覚えていない。
その日アブラが1曲目から披露したのは意外にも美しいボサノヴァ調のメロディだった。
まるで「別れ話は最後に」じゃん!と思った。ボクはそのブラジリアン・メロウなオリジナル曲に嫉妬しながらももはやウォッチャーの域を越え単なる追っかけ、ファンと化している自分に気づいていた。それぐらい名曲だったんだな。ちなみに歌い出しはこうだ。

1コーラス歌い出しはヘヴン、という歌詞。
2コーラス歌い出しはセブン、という歌詞。
3コーラス歌い出しはイレブン、という歌詞。

うーむ・・この曲・・もしかするとそういう韻を踏みたかっただけ?だけどいい曲だなと思った。悔しかったけど。サビの部分で「貴方」が登場するのも桑田佳祐のDNAを濃厚に感じ取った。小林武史プロデュースの初ソロ収録「いつか何処かで」を彷彿とさせる泣きのサビ。おそらく日本全国、いや世界中のポップ・マニアがむせび泣くクオリティだった。歌詞をのぞけば。

この日の打ち上げでアブラはこう語っている。「そうそう!アレはさあ、ヘヴンときてセブンときて・・あとはイレブンしかねえじゃん?ソレ思いついたときは自分で天才かと思ったね(笑)」

もう1曲、まんまサザンのボディスペシャルあたりに影響受けたナンバーも披露されていた。

Everybody Dancin'
Everybody Dancin'
ここじゃなさそで
Do'nt Let Me Down

ここじゃなさそうで、ではなく
アブラいわく「なさそで」がポイントだと。これも打ち上げで熱弁された。まあね、わかるよ。ええ、わかります。その譜割のイメージ。同好の士にしかわからないフィーリング。

あれから30年近く経過しようとしているのに、この2曲のメロはいまだ覚えている。名曲だったんだろうな、やっぱり。とはいえこちらもメロのキャッチーさに比べ歌詞が弱いなとは思った。そう、アブラに決定的に欠けてるもの。それは文学性だった。文字面から浮かび上がるカオスなフィーリングがまったくないのだ。
その日の打ち上げでボクとアブラはお互いのサザンフェイバリットをあげ、(ボクはアルバム「熱い胸騒ぎ」、アブラは「ステレオ太陽族」)サザン関連書籍「ブルーノートスケール」「ロックの子」「ケースケランド」「たかが歌詞じゃねえか、こんなもん」は勿論、ベースの関口さんのペンによる「突然ですが、キリギリス」がいかに青春物語として素晴らしいかで意気投合した。実際、ボクもアブラもカギがついているのが無意味に思えるかのようなボロアパートに住んでいたし、「突然ですが〜」はそんな貧乏な大学生にとってシンパシーを感じるポイントだらけだったのだ。91年頃の話ですよ、コレ。いかにバブルの恩恵から遠い生活だったかってこと!やれやれ。

そのあと、アブラはサークル有志で企画バンド「サザンのさ」を結成、全曲サザンの完コピをしたこのバンドは瞬間、学内でブレイクした。
「だってさあ、モテないんだもん。バンドやっててモテないってどういうことよ?だったらモテようじゃんって思ってさあ。なら、サザンの完コピバンドやるしかないじゃん」アブラはニヤリとしながらそう答えた。
たとえば「YOU」ってサザンの曲。アレ、演奏コピーレベルなら(簡単じゃないけど)がんばればなんとかなるんです。問題はウタ。ヴォーカル。ちゃんと歌っちゃうとむちゃくちゃダサくなる。絶妙なフェイク感覚が必要だし、アブラはそのへんちゃんと理解して歌ってたんです。

アブラがロックコミューンの面々を集結させたサザンオールスターズ完コピバンド「サザンのさ」は学内でブレイクし、あくまで学内のイベントのひっぱりだこになったが所詮は企画バンドだった。だけど完コピバンドとしては優秀だった。そしてアブラのボーカリストとしての才能はボクの視点から見てもアマチュアレベルを越えていたし、きっとこいつは世に出てくるだろうと思っていた。ソングライターとしてはともかく、なんらかの形で世に出てくるだろうと。ちなみにこの「サザンのさ」のメンツでビートルズのアビーロードメドレーは圧巻だった。アブラのジョン・レノン歌唱は完璧。そういやボブ・ディランは歌ってなかったので本人に聞いたことがある。

「桑田さんがさぁ、ディランがいいっていうから聞いたんだよ。そしたら俺、ぜーんぜん理解できなくてさあ。あはははは。なんつうか俺、小難しい雰囲気がダメなんだよなあ。ガツーンとこねえとさ(笑)サザンって俺にはダイレクトにきたんだよなあ。ほら、アルフィーとかって女性ファン多いじゃんさ?もうその時点で俺、無理って思ったもん。俺は高見沢にはなれねえっつーか。そういう意味でシンパシーはあったんだよ、サザンには」

今思うとむちゃくちゃ失礼な発言でしかないのだがモテない大学生のたわごととして聞き流してもらいたい。それぐらい当時の立命館のバンドマンはモテなかった。

そしてアブラの快進撃は学内音楽サークル対抗のビートルズ完コピイベントでのアビーロードメドレーで終わってしまった。卒業を間近に控え、「あじさい」のライブ頻度も減っていきアブラが素の本田に戻る日がやってきたのだ。

そう。アブラのボーカリストとしての類稀なる才能が脚光を浴びる日が訪れることはなかったのだ。

ちゃんと大学を4年で卒業したアブラは地元の島根県に帰郷。人伝にNHK BSヤングバトル島根県代表として出場したとかしないとか、その辺はよくわからない。あくまで噂レベルだ。

そしてアブラが在籍していたロックコミューンという音楽サークルから、くるりというロックバンドが輩出されるのはその数年後のことになる。
ちなみにボクは留年したのでアブラが卒業した2年後にようやく社会に出ることになる。

先日上梓された桑田佳祐氏の週刊文春での連載をまとめた「ポップス歌手の存在の耐えられない軽さ」を読みボクは久々にアブラという男を思い出した。大学時代のこと、デビュー直後の日々など、これまで語られることがなかったエピソードもさりげに書かれているこの書、ボクはこのエッセイ読みたさに毎週文春を心待ちにしていた。正直この連載が終わり小林信彦の連載も終わった今、ボクは文春を毎週購読するモチベーションを失いまくってるのだがこの話は割愛。

ここで語られる文体。ボクがかつて聖書としてあがめていた「たかが歌詞じゃねえか、こんなもん」や「ヴルーノートスケール」の頃を彷彿とさせると思ったのはボクだけかもしれないが、変に老成せずかといって無理な若作りもないそのスタンスが実に心地よかった。できれば連載再開してくんないですかねえ、と思ってるんですけどね、はい。

きっと島根の片隅でアブラも読みふけってるんだろう。今でもヒゲは伸ばしたままなんだろうか。
テレキャスターは今でも弾いてるかい?

あの「別れ話は最後に」みたいなあの曲、メロは完璧なので歌詞だけ直して配信でもいいからリリースして欲しいな、と最後に一方的な願いを書いてこの章はシメ。

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