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西寺郷太「90's ナインティーズ」を読む(改訂版)

Ah 僕らの莫迦らしい話 朝まで続くはずさ

(太陽は僕の敵/Cornelius)


90年代の末期から毎日のように下北沢にいた。饗宴なんて言葉が相応しいかわからない。だが、いろんな出会いもあったしそれは今でも続く交流、とっくに途絶えてしまい行方しれずの人も含め甘くもあり苦くもあり。要するに青春な日々だったってことなんだろうな。

 先日上梓された西寺郷太著「90`s」の小説を読んだ。90年代初頭のミュージック・シーン(というかカルチャーシーン全般ですね)を描く小説とくれば樋口毅宏の「ドルフィンソングを救え!」もある。どっちも好きな小説なんだけども当事者が描く自伝的小説という意味では出版された意義は大きい。特に時代背景的にもボクはシーンの末端にいた人間なので90年代終盤の東京の風景が蘇ってくるようでひりひりと痛いんだな。ボクは98年から東京に住むんですけど、まずはZEST行かなきゃみたいな。上京したての頃、知り合いなんていないので毎週日曜日はただ茫然と渋谷を歩いてましたね。ZESTで7インチのアナログ買って公園通りのハイファイレコードストアでAORのレコード漁ってURTRAを冷やかす。終着点は旧ブックファースト渋谷店、全身レザーで決めた雑誌バァフアウトの編集長、山崎さんを何度も見かけたな。うわー、いいな、格好いいなと思うだけで話しかけることもなかった。後々自分がその雑誌でライターやるなんてその時点では考えもしなかった。つまりこの時点でボクは何者でもなかったわけで、当時第一線で活躍する方々を時折都内で見かけるたびに羨望の眼差しでぼやーっと見ているだけだった。とにかく渋谷ブックファーストでの目撃、遭遇率が高かかったのは大型店舗で地下には豊富な洋書の在庫を並べ、出版される点数も今とは比較にならないぐらい多かった。1階は雑誌、新刊で埋め尽くされ確か4階か5階ぐらいまでフロアがあったはず。店内を徘徊するだけで1〜2時間は余裕で潰せたのだ。今は跡地にZARAだもんな。


 さてボクは当時いったい何をやってたかというとレコード会社に勤めながら90`sの終盤戦、フリーペーパーの編集をやっていた。98年に上京したのは転勤と異動。この年の夏に営業から制作になり、初めて使用したのは下北沢近く梅ヶ丘にあるリンキーディンク。ニール&イライザの片割れ、チャーべ君ことCubismo Graficoによるトラックメイキングが最初の現場だった。ちなみに紹介してくれたのはインスタントシトロンの片岡知子さん。この仕事でボクは下北沢〜梅ヶ丘に通うことになる。若き日の広末涼子が東北沢のマンションに住んでる情報を教えてくれたのは片岡さん。片岡さんにはほんとにお世話になった。つくづく惜しい才能だったと思います。


 ノーナ・リーヴスを取材したのは彼らのメジャー4枚目となるシングル「BAD GIRL」が最初だ。そのときのインタビュアーはボクではなく当時の部下の女の子。ボクは同席してたか定かではない。次作シングルでメジャー2ndALに当たる「FRIDAY NIGHT」にも収録されてる「STOP ME」はインタビュー稼働なしの書き原対応、アルバムの取材もボクは稼働していない(と思う)。というか当時のスタッフが許してくれなかった。奴らは「鈴木さんはインディーズを何にもわかってない」というのが理由。おいおいメジャーデビューしてんじゃん?と思ったがインディー出身で爆売れしてないのは「いつか戻ってくる」という理由でOKってんだから恐ろしいっていうか「アーティストに失礼じゃないか?」と言ったら全員辞めて行きました。情けねえ。

 メジャーとインディーズの境界線がはっきりしていた最後の時代だったんじゃないだろうか。当時「下北沢」をいかに脱出するかが各レコード会社の担当A &Rが力を入れてたことだったんじゃないだろうか。明らかに無理なタイミングでのメディア大量露出、早すぎるクアトロワンマンとかいっぱいあったな。「確実にブレイクするからぜひ表紙を」なんてプロモーション、いくつ受けただろう。ボクはけっこう断りがちでした。ひとり編集部体制時代はほぼ断ってたか裏表紙なんて技を開発、表1表4区別なし!なんて苦し紛れなんですけどね、いま考えると。でも休刊まで定着しちゃいましたな。


 編集長という肩書きになるのは2000年の秋頃でHARCOが表紙を飾った号なんだが、ボク以外のスタッフ全員が辞めたので自動的に編集長になっただけというのが事実。ボクにしてみれば下北沢の雑貨屋が好きでどこどこのバンドの何々君が可愛い(笑)な視点のスタッフ連中だったので辞めてもらって全然よかったんだがひとりで何役もこなさねばならないのはきつかった。レイアウトを除くと入稿までほぼ一人でやってたので一ヶ月に一回発行のフリペはどんどん発行が遅れる。ソレでも遅れを取り戻さねばと月2回結果的にリリースしたりして、まあ無茶苦茶な日々を過ごしていた。だんだん軌道に乗ってきてラジオやらイベントやらテレビやら出たりするようになり、ロフトプラスワンでトークライブまで辿り着く。今なら絶対体力的に無理。


 ちなみにボクがようやく西寺郷太にインタビュー出来たのは筒美京平とのコラボレーション「LOVE TOGETHER」。ここからノーナ関連のインタビューはボクが行うことになる。てゆうか、正確にはスタッフ全員辞めてしまったので編集、ライティング、広告営業、インタビュー、ブッキングを全部ひとりでやらなきゃいけなくなったからなんだが。本書中には触れられてないが、ワーナーからコロムビア移籍後、一回のインタビューの分量が収まらず三ヶ月連続で分割してインタビュー掲載をしたこともあった。ちょうどその時期に「小説書こうよ」なんて話になって「数学教師」なる連載小説を書いてもらった。もっとも2回ぐらいで肝心のフリペは休刊になってしまうのだが。ちなみに今年は休刊20周年。なんかやろうかな。無理か(笑)


 ノーナのインディーズ時代のアルバムはタワーレコード心斎橋で購入したと思う。ボクが東京に転勤なるのが1998年の2月。初めて下北沢QUEに足を踏み入れるのがその年の4月か5月でadvantage lucyの対バンライブを見に行っている。ついでに言うとボクのインタビュアー初仕事も彼らだ。場所は江戸川橋のリハーサルスタジオで、インタビューなどしたことがないのでただ緊張していた。前日まるで受験勉強のノリでロッキンオン•ジャパンのインタビューを熟読。あらかじめ質問表を用意するもガチガチのインタビュアー初心者に雰囲気作りもへったくれもない。ものの15分で終わった記憶がある。予定は1時間だったけどな。。。おまけにインタビュー終了後、帰りの駅の階段で思い切りコケて転落、左膝を負傷したことはよく覚えている。1年ぐらい経過して、ようやくインタビューのコツを掴んだんだっけ。ノーナが所属していたワーナーミュージック邦楽班には気に入ってもらえたのか単に心配されてただけかわからないがものすごいお世話になった。「今日はね、5本連続ね」「来月は10本だから」と身柄を拘束されてのインタビューの千本ノック。あれは鍛えられた。とにかく数をってことでなぜかコブクロとかインタビューしてるんだな。そうだ、なぜか結婚前の乙葉も取材している。なんでもありだな、もはや。


 Cymbals、GOMES THE HITMAN、pre-school、クラムボン、キリンジ、プレクトラム、、LaB LIFeにmotocompo、ROUND TABLE、、表紙を飾ったアーティストが走馬灯のように蘇る。とにかく取材を通して出会ったバンド、ミュージシャンは多かったけれども、今考えるとボクがフリーペーパーを始めた時期はすでに端境期で次のシーンへと下北アンダーグラウンドは動いてたんですよね。例えば99年年末時点でネクストブレイク必至のニューカマーはBUMP OF CHIKENとされてたし、実際あっという間だった。そうそう、BUMP〜あたりからシーンの様相は少しづつ変化していく。Hermann H.&The Pacemakers、GOING UNDER GROUND、ちなみに日髙央率いるBEAT CRUSADERSを表紙にしたのはボクのフリペが一番早かった。ポップで洋楽偏差値高めなインテリジェンスさよりも轟音ギターのアンサンブル、ポップでエモいバンドがイベントの主導権を握るようになったのだ。この頃になるとボクにもようやくアシスタントがつく。編集部主催のイベントを東京大阪でやるようになり、デモテープ募集なんかもするようになった。そんな大量に送られてくることはなかったが気になる何本かにはASIAN KUNG-FU GENERATIONのデモテープもありました。


 当時ワーナーが推してたのがキリンジ、クラムボン、そしてノーナ•リーヴス。渋谷系からの流れを汲みつつのお洒落で洋楽偏差値高めのスタイリッシュなポップ•ミュージックを輩出していく意思の強さはものすごく感じた。当時邦楽シーンで勢いづいていたロッキンオン・ジャパン系とはひと味違うのも手伝ってか、この3組のインタビューは毎回新譜がリリースされる度に取材を行ったしレコ発なども出席した。渋谷クアトロ、赤坂BLIZ、渋谷A Xを経ての渋谷公会堂、NHKホール。キリンジがNHKホールを行った際、ワーナーの宣伝スタッフが「やっとここまでこれましたよお」と嬉し泣きしてたのを覚えている。


 この3組の中で最もインタビュー・パフォーマンスが上手かったのが西寺郷太だ。話が長いという印象もあるかもしれないが、きちんと組み立てられたトークなので後々インタビュー起こし段階でカットしづらい。割愛していくと内容が薄まるし、それが嫌でボクは彼の話を極力活かすべく毎回苦労した。文字の級数をギリギリ読めるぐらいまで下げ、それでも収まらない場合は次回に続くだ。話も面白いし、後々マイケル•ジャクソン本がブレイクした時も何の不思議もなかった。というか今だから言えるがボクはノーナが一番最初にブレイクスルーだと思っていた。ポピュラリティある楽曲、声、YOU THE ROCK、筒美京平と世代を超えたコラボシングル「DJ!DJ!〜とどかぬ想い〜」がどうして売れなかったのか。つくづくヒットはタイミングだ。翌年、ワーナ発でブレイクしたのはRIP SLYMEとKICK THE CAN CREW。HIP HOP時代の到来だ。ふう。


 Cymbalsのインタビューは2度ほどやったが土岐麻子さん、ほとんど喋らなかったことは覚えている。とにかく沖井礼二ワンマンショウ。なので解散後、土岐さんがジャズアルバムを出したりソロシンガーとして活躍し始めたのは少々意外だった。先日吉田豪さんの配信番組拝見したけどむちゃくちゃ面白い出目なんだなと。当時気づいていればなー、もうちょっとインタビューも引き出せたのに。


 下北沢という街は好きだったけれども、いわゆるインディーズ界隈にどっぷり浸かるのは嫌だなと思っていた。とはいえ実際は毎日のように下北沢にいたんだけども。新宿LOFTでライブを見て下北沢へ。お目当てのバンドの出演時間まで駅前のヴィレッジヴァンガードで時間を潰し、北口にあるライブハウス(ガレージ)から251、もしくはシェルターを経てQUEに辿り着くコースは当たり前だった。時折ソレが渋谷が起点になったり代々木だったり。毎日どこかのライブハウスに顔を出すことを自分の義務としていた。


 なので誌面もできるだけ「はみ出す」ことを意識して考えていた。あえて京都のバンドシーンを大きく取り上げたり、映画や漫画の話題を盛り込んだ。高田文夫ロングインタビューとか唐突すぎて意味不明だったと思うが、ボクにとっては勉強になった。あれは「コミックソング」特集をでっち上げて高田文夫にインタビューをしたかっただけなんだよな。松本隆ロングインタビュー、江口寿史ロングインタビューもただ会いたかっただけ。江口さんとは今もご縁が続いて一緒に対談連載をやっている。


 今と違って、当時の下北沢の夜は「朝まで続く」のが当たり前だった。ライブ打ち上げ後の居酒屋を経てのトラブルピーチ、何度となく深夜2時、3時にタクシーを捕獲、帰途につくことがあった。途中から三軒茶屋に住んでいたので真夜中の茶沢通りを歩いて駅前の漫画喫茶ガリレオで一休み。結局そこで朝まで漫画読んで帰宅する、なんて日々もありました。ボクが後々マンガについて書いたりするようになったのはこのガリレオ詣でが大きいです。ここで昔読んで忘れてた作品、手を伸ばせなかったものなどとにかく大量に読みました。蛮行と言われる「柳沢きみお」全作品網羅もガリレオでのディープな漫画漬けの夜がなければ思いもつかなかった。


 ノーナ・リーヴスはコロムビアを経て徳間へ移籍していくわけですが、この辺の話は小説家西寺郷太の前作に当たる「噂のメロディメイカー」に詳しい。なのでこの2冊を読むと2000年代初頭までの、まだサブスクなんてなかった時代のJ-POPシーンの空気を知ることが出来ます。表層で語られることは多いですが、実際の(特に現場の)空気感ってほとんど語られてないんですよね。そういう意味でもこの小説が上梓された意味合いはとても大きいと思ってます。


 本書の中でボクが特に印象に残ってるのは主人公がミュージシャン、ソングライターとして覚醒していくくだり。そしてメジャーデビュー後の葛藤ですよね。好き勝手にこだわってやることと商業ベースできっちり結果を残していくこととのギャップ。サヴァイヴし続けることの苦しさ。あるものは別の道をいき、あるものはさらにコアでニッチな世界へ、消息不明なんてザラにある話。音楽性は真心ブラザーズなのに本人のライバルは小沢健二だったという、プロデビューを宣言し新卒で就職した会社を三ヶ月で退社したボクの同級生は連絡先不明ですからね。オザケンと唯一重なるのが90年代中盤〜終盤にオザケンがMV撮影で京都の喫茶店を使用したことがあったんですが(曲名忘れた)ボクの同級生はそこで長らくバイトしてました。昼間はそこで働き、夜は近くの風俗店「いってみるく(仮)」で店長やってたところまでは知ってる。消息を経った2003年からもう20年。今でも京都に住んでいるのだろうか。


 この物語で描かれている下北沢は再開発を経て、街の様相も変わってしまいました。つい先日(この小説にも出てきますが)曽我部恵一さんと会ったとき「すべてがちょうどいい街」と表現していましたけど、お洒落すぎず、いろんな世代の人々がいて、ちょうどいいサイズの新しい音楽や演劇を提供するハコがあって、、旧知の、ソレこそボクが上京後仲良くなった現在小泉今日子さんの音楽ディレクターを務めているK氏も同じようなことを言ってました。街は変わる、人も変わる。だけど根底に流れるムードは変わりようがない。そこが街の面白さなんでしょう。


 筆者の西寺郷太率いるノーナ・リーヴスは今も精力的に活動、郷太くんはソロとしてもソングライター、プロデューサーと多角的に活動している。あの頃知り合ったミュージシャンも皆んな少しづつ形を変えながらサヴァイヴしている。小説の最後の1行、ここに作中出てくる全てのミュージシャンの気持ちが凝縮されてるんじゃなかろうか。気になるひとはぜひ本書を手に取って読むといい。ミュージシャンに限らず、「自分にとってやりたいこと」を追い続ける人たちにとってこの小説は応援賛歌のようなものかもしれない。無意味に甘すぎず、ビターな風合いもあるので信用していいと思いますよ。


 音楽でも小説でも漫画でもいいじゃないですか。おばあちゃんが映画撮りたいなんて漫画もあるしね(海が走るエンドロール)。「Tシャツつくりたい」でもありだし「たぬきゅんとコラボしたい」と下北沢の夢眠書店へ通うのも方法論かもしれない。もしかしたら60近くで英語を完璧にマスターしたいとかでもいい。あ、今どきなら韓国語かもしれないし、やりたいことに賞味期限なし。幾つになっても諦め悪くジタバタしていい時代。だからこそ、この小説は多くの人に読まれるべきだと思います。向かい風もいつの日か追い風に変わるかもしれないって小さな希望を抱きながら生きていくことこそ真理だもん。

 すべての何者でもなかった人たちの、青春狂走曲。サヴァイヴするのも大変なんだよ。でもやるんだよ。そんなタフなエネルギーをもらえる小説だと思います。さてひさびさにあいつに連絡してみようかな。

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