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佐野元春の眼鏡、辻仁成のエッセイ、大江千里のリアル(訂正版)。


高校時代のこと。佐野元春に憧れて黒縁の眼鏡を買ったが、かけている自分を鏡で見て思ったのはどう考えても失敗した大江千里にしか見えなかったことがある。感じるところは十人十色だろうが。リアルに生きてるか。ええ、そんな時期。

ECOESを知ったのは月刊明星の新人紹介コーナーだった。居心地悪そうな顔でならぶアーティスト写真。その中で辻仁成はむちゃくちゃ不機嫌そうにこちらを睨みつけている。デビューシングル「Bad-Morning」の歌詞の視点はユニークというか今までに見たことがないものだった。忙しいパパと昼間っからストッキングを直しながら色っぽい長電話をするママ、そんな2人に「忘れないでね」と主張する子供の視点。深く印象に刻まれた。

当時、明星はインディーズデビュー直前のブルーハーツを巻末数ページで取り上げている。ヒロトのロングインタビューは「いじめられっこにもなれない自分がロックに目覚めて変わった」という内容。保坂展人の「元気印レポート」って連載の拡大版かなんかだと思う。つまりいじめっこにターゲットすらされなかった、それぐらい目立たない、自我のない少年だったんだって話と記憶している。やたら印象に残ったし、「人にやさしく」を聞いていつも思い出すのは明星の記事だ。すでに東京インディーズシーンではコーツというバンドの頃から知るひとぞ知る存在だったヒロト。彼を知る術は当時ボクが住んでいた東北の田舎町ではほぼなかったので、あの頃の明星は貴重な情報収集源だったのだ。

佐野元春が表紙のロッキンオンジャパン創刊号。ボクは「やっと会えたね」とは思わなかったが、コレだと思った。大判装丁でソニーマガジンズの音楽誌では見ることが出来ないビジュアルセンス。突っ込んだインタビュースタイルも新鮮だった。

ちなみにおそらく実家にあると思うが眼鏡姿の佐野元春が表紙の号(画像で使用したこちらは創刊号ではないです)は何度も読み返した。当初月刊ですらなかったこの雑誌には江口寿史の連載が見開き2ページで掲載されていたのもイカしていた。ルースターズの解散インタビューを読んで大江慎也を知り、シュガーキューブスの前座をした彼の公演を観に行った。チェッカーズの藤井フミヤをあえて取り上げるセンスは後年武田真治を取り上げる壮大な前フリ(デビューアルバムは武内亨プロデュース)。アイドルとして全盛期だった光GENJIへ言及するフミヤはカッコよかった。とにかくソニマガ、月刊カドカワには絶対に真似できないものが確かにあった。


結局、自称“佐野元春”な黒縁眼鏡を僕は大学2回生の頃まで続けることになる。「エルヴィス・コステロに見えなくもない」とか思いつつ、その頃には佐野も黒縁眼鏡でメディアに登場することは少なくなっていた。なのでやめてコンタクトに替えた。アルバムでいうところの「Time Out!」の頃。先行シングルは「ジャスミンガール」だった。この時期、オノ・ヨーコとショーン・レノンとコラボしていた記憶もあるけどあんまり覚えていない。

翌年91年に辻仁成率いるECHOESは解散する。その解散ロングインタビューがロッキンオンジャパンに掲載された。ボクはその記事中で辻と佐野のちょっとしたエピソードを知る。

「辻、まあ飯でも食おうよ」
バンドの方向性で煮詰まった辻に佐野はそう声をかけた。食事に行き、辻の煮詰まりには一切触れず「じゃあ!」と別れた佐野。
辻は拍子抜けしたとインタビューで語った記憶がある。だけどこれぞ佐野元春だなと思った。「ロックンロールは時給仕事じゃないんだ」という至言を残す佐野にとって「バンドもこれからじゃないか」なんてアドバイスをするわけがない。すばる文学賞を受賞し、小説家としても、またひとりのアーティストとしても変革の時期に差し掛かっていた辻を止めるわけがないじゃないすか。
いいなあ、オレも「飯でも食おうよ」って誘って欲しいと当時思った。

そんな佐野元春とボクが接近遭遇したのは2004~5年頃だった。当時ボクが懇意にしていたシンガーソングライター、堂島孝平くんと佐野元春によるコラボライブ@中野サンプラザ。そのリハーサルに誘っていただいたのだ。場所は芝浦かどっかの広いスタジオだったと記憶している。

リハスタに行くと佐野さん以外は全員揃っていた。
伊藤銀次さんもボクと同じように誘われていたらしくその場にいらっしゃっていた。銀次さんと堂島くんはその1〜2年前にボクが主催した新宿リキッドルームで共演している。堂島くんのパートに銀次さんがゲスト出演、「雨のステラ」をコラボしたのが始まりだったかと思う。

リハが始まり、ボクと銀次さんは休憩室で佐野さんの到着を待つことになった。

しばらくしてふらりと佐野元春はやってきた。
「やあ、銀次。こないださ、ヴァン・モリソンのブートレグを見つけたんだけどなかなか骨太でよかったよ」
ジム・モリソンなるワードも聞こえてきた気がする。そんな会話はかつて佐野がパーソナリティをしていたNHK FM「サウンドストリート」の如く、まるで番組ゲストで伊藤銀次が招かれて、、みたいな錯覚を覚えるほど2人は音楽談義に興じていた。

その後堂島くん率いるリハに佐野元春は参加する。そこでも佐野は佐野でかない。ボクらの世代が脳裏に焼きつけた、あの佐野元春のパフォーマンスがリハの段階から炸裂していた。首でリズムをとるあの仕草。ギターの位置、足の開き具合も含めて、もうこの段階から細かくセルフチェックが入っていたはずだ。
「アンジェリーナ」、「ガラスのジェネレーション」をリハする佐野の姿を間近で観れたなんてなんてラッキーなんだろう。ただ、ボクは青春プレイバック状態で感服するしかなかった。

リハが終わり、帰りは銀次さんと一緒に帰った。
電車の中でボクは銀次さんに控え室での会話のことを聞いてみることにした。
「銀次さんと佐野さんって仲がいいんですねえ。しょっちゅう情報交換とかしているんですか?」
「うーん、、、今日で2年、いや3年ぐらいぶりじゃないかなあ」
「ええええ!まるでヴァン・モリソンの話、昨日のことのように話してたじゃないですか」
「うん。だけどそれが佐野くんだからね」
納得。そして数年のタイムラグにはびくともしない2人の関係にも感服した。


辻仁成の「音楽が終わった夜に」というエッセイ集がある。学生時代、その後の売れなかった時代のことなどを淡々と綴る文章がとても素晴らしい。時々ボクは思い出したようにその本のページをめくる。90年代の終わりに新潮文庫版で購入したその本はバンド解散後、ミュージシャンを続けながら小説家を続けていくまでの話だ。時期的に恵比寿駅前あった小さな本屋で買ったと思う。マイペースで文芸編集者や小説家とバンド活動を楽しむくだりは最高である。デビュー時に、にらみつけるような眼差しだった男と同一人物とはとても思えない。また、ハンバーガー屋でバイトしていた頃、次から次へと新メニューを考案し実行していたくだりなんかはパリに住み、日々の食事を作り、レシピを公開している今の辻とかぶるじゃないですか。これもロックンロールが続いていくひとつの形なのだ。

そういえば本格的に眼鏡に切り替えようと思っている。やっぱ黒縁かなあ。かけてみて、自分の理想ビジュアルとして大江千里の「OLYMPIC」(いや、名盤なんですよ)ジャケではなくやっぱり佐野元春「No Damage」って思われたいんだよな。そう思いつつ、出かけるたびによきフレームを探すもまだコレっていうフレームが見つからない。まさに99BLUES。花粉もひどくなってきたしなあ。早いとこ見つけたいもんです。

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