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ボクの青春狂走曲は福島から始まった。


ボクにとって福島は人生で三番目に長く住んだエリアである。

佐野元春にハマったのも、ココ。
レベッカのライブ観に行ったのも、ココ。
スターリンの「テンプラ」をガットギターでコピーしたのも、ココ。
エコーズのコピーバンドを組んだのも、ココ。
週刊少年サンデーを買い始めたのも、ココ。
週刊少年ジャンプを買い始めたのも、ココ。
初めて行ったレコ屋WAVEは郡山店だった。
ロッキンオンが刊行していた「大東京トイレ事情」は
郡山のいまはなき東北書店で買った。

福島グルメのイチオシである酪農カフェオレを毎日飲み、肥大化する自意識とカルチャー全般への憧れに身をもだえながら過ごしたのがボクにとっての福島なのだ。

福島市に住んでいたときに知り合った同じクラスにいた小野くんの愛読書は「宇宙船」という特撮マニア向けの雑誌だった。

「とりあえず星新一と筒井(康隆)は読んだ方がいいね」(福島弁)と上から目線でリコメンドされ、「ボッコちゃん」(星新一著)、「農協、月に行く」(筒井康隆著)を買った。「マンガは高橋留美子。サンデーは毎週買わなきゃ」と「うる星やつら」を全巻揃え、当時定期的に発売されていた「うる星やつら」のムック本の「けもこびるの日記」で高橋留美子が五目焼きそば好きなのを知った。

おそらく小野くんのリコメンドだけを受けていたら、ボクの人生は変わっていただろうと思う。ここでもうひとりの重要人物が登場する。

春日くん、というジャッキー・チェン好きの男だ。春日くんは根っからの体育会系でガンプラブームのときも冷ややかな態度だったし、ボクが小野くんからSF関連の洗礼を受けている際もマイペースさを崩すことなく酔拳の練習に励む男だった。あ、あと新日本プロレスだ。藤波辰爾ファンだったんだよね。

そんなおおよそ趣味が合うはずもない春日くんだったが、家の方向が同じだったので一緒に帰ることが多かった。あれは横断歩道で信号待ちの瞬間だった。春日くんはなにか鼻歌を歌い始めた。

さよならさ good-bye my sister
さりげなくいうよ
めぐりあいを約束に


(約束/渡辺徹 作詞 大津あきら 作曲 鈴木キサブロー)

「なにそれ?」
「知らねえの?遅れてんなあ。渡辺徹の「約束」って曲だよ」(福島弁)

渡辺徹を知らなかった。ボクは「ザ・ベストテン」も「夜のヒットスタジオ」もまともに観たことがなかったのだ。唯一の歌番組体験は福島に引っ越して間もない頃、たまたまテレビをつけたらサザンオールスターズが出て「チャコの海岸物語」を歌っていたのを視聴しただけ。黒柳徹子が出てたのであれは「ベストテン」だったと思う。もちろん作詞の大津あきらとつかこうへいの関係値の深さなんて知る由もなかったのだ。

曲がいいとか悪いの前に、とりあえず知らないことが悔しかった。帰宅し、その頃親が惰性でとってくれていた(興味ないので読んでない)「中一時代」を手に取った。その頃の中一時代はいわゆる中学生向けの芸能記事がやたら豊富だった。特に音楽ページは充実していて「ドライブミュージックなら山下達郎」「高感度人間なら大瀧詠一」と煽り文が並んでいる。そしてボクの人生を変えたのはオリコンチャートが100位まで掲載されていたこと。

もちろん月刊誌なので前月のどこかのウイークリーチャートを転載したにすぎない。だけどボクにとっては100位まで掲載されてる事実が衝撃だった。
チャートをよく見ると赤丸急上昇曲というのがある。今でいうネクストブレイクみたいなものだ。つまりこれをチェックすれば春日くんに勝てるんじゃないかと思ったわけだ。未読の中一時代を引っ張り出し、ボクはオリコンチャートを読み解く作業に熱中した。

中一が終わり、中二のタイミングでボクは福島県郡山市に転校した。

転校先では「風の谷七人衆」なるアニメヲタク集団、市川くんと安藤くん(あとの5人は集まってない)から「一緒にアニメを作ろう」と誘われたが断った。風の谷七人衆は文化祭で「俺たちだけのアニメを作るんだ」を前評判を煽りに煽っていたが、10数枚のセル画、しかも「ナウシカ」の1シーンを模写、「ガンダム」の1シーンを模写程度でおおいに評判を落としてしまうことになる(この話はまた別の機会に)。

が、ボクにとってはオリコンチャートを読み解くことが重要だった。だが月1回のチャートだけでは物足りない。その頃には「ベストテン」も「歌のトップテン」も毎週チェック、物足りないので萩本欽一の番組もすべてチェック(一番のお気には週刊欽曜日の欽ちゃんバンド)、時代のネクストブレイクを確実に読む男になりたかったのだ。中学二年生で1983年のことだ。

チャートのネクストブレイクを読み解くサブテキストとして月刊明星を買い始めたのは83年6月のこと。付録の歌本の情報量に驚いた。近田春夫を知ったのは新曲批評コーナーでだし、自分内基準みたいなものにものすごく影響を与えたと思う。この時点でボクはオリコンなるものがレコード店で売ってることを知らなかった。情報がない、ということはほんとに恐ろしいよ。要するにこの時の感覚のままなんだな、ボクの場合。
レコ屋の店頭でオリコンチャートを毎週読みふける度胸がつくのが翌年84年以降のことになる。中学生はなにかと物入りなんですよ。ジャンプも毎週買わなきゃいけなかったし。

しかし我ながらきっかけが渡辺徹の「約束」だったことに驚きますよね。
これが大滝詠一の「君は天然色」とか山下達郎の「あまく危険な香り」とかなら格好がつくんだけど。そんなわけでとりあえずボクが初めて買った(アニメ以外の)ミュージックテープは渡辺徹の「TALKING」である。ちなみにレーベルはエピックソニー。

シングルとなると「うる星やつら」絡みでヴァージンVSの「星空サイクリング」、あとは高橋留美子の描き下ろし原画が素晴らしいテレビアニメサウンドトラックのミュージックテープ。特殊仕様の紙パッケージだったな。

82年の少年サンデーは高橋留美子、あだち充の「タッチ」、原秀則はまだ「さよなら三角」を描いていた頃。「六三四の剣」(村上もとか)、「火の玉ボーイ」(石渡治)、「なんか妖かい?」(里見佳)に加えて島本和彦やゆうきまさみが増刊で人気を集め始めていた。「こちゃんと礼」なる礼儀作法の漫画が始まったときはどうかしてると思ったけど島本和彦の自伝的作品「アオイホノオ」で最初この礼儀作法漫画の企画が島本のところにいってた事実を知り驚いた。まだ「美味しんぼ」の連載すら始まってない時期なのに!

六田登は「ダッシュ勝平」に続く次作に悩んでいた時期だったかと思う。「その名もあがろう」なるエスパー漫画(主人公はバンドマン)が83年より始まったがあっという間に連載終了。次回作はスリが得意な少年がボクサーを目指す「陽気なカモメ」。これもすぐに終わった。その反動がスピリッツに移籍し「F」の原動力になったとボクは思っている。池上遼一のSF「青雲児」は面白かったが短期連載で終わってしまった。

84年に上條淳士(原作は雁屋晢)による「ZINGY」の連載が始まる頃にボクはサンデー読者を離脱し、ジャンプに移籍する。そう、「きまぐれオレンジロード」が始まったからだ。連載開始は1984年のジャンプ15号から。「シティ感覚で頑張ります」と巻末作者コメントでまつもと泉はそう語っている。

「風の谷七人衆」の市川くんと安藤くんは圧倒的に「北斗の拳」派だった。
「オレンジロードを認めるわけにはいかないんだよね」(福島弁)とボクに冷たくなった。おそらくアニメ制作を断ったことも尾をひいていたのだろう。
だいたいその頃には同じクラスのYMOフリーク、大河原くんと細野晴臣のソロアルバムはありかなしかという議論をしてたりすることの方が楽しかったなんだな。


福島時代の友人であり、ボクを音楽好きへの道へ叩き込んだ春日くんとは郡山への引っ越しの前日に会ったっきり。そしてジャッキーは今や国際的スターだ。春日くんの酔拳はタコ踊りみたいで本家とは似ても似つかないものだったな。


そっちはどうだい うまくやってるかい 
こっちはこうさ どうにもならんよ
今んとこはまあそんな感じなんだ

(青春狂走曲/サニーデイ・サービス)

毎年この季節が近づくと福島の頃を思い出す。
サニーデイ・サービスって、こういう気分のときにやけに胸にしみるんだな。

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