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抱きしめたい(試読版)

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小説。内容フィクション、感情ノンフィクション。恋より切ないラブストーリー、序章。
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記事一覧

1-4 アパートの前

 カタバミがタンポポの陰で咲いていた。
春もそろそろ盛りを過ぎる。トンビがにぎやかだ。
彩りに満たされた世界に気づいたおれは、そろそろ工房に戻ってもいいか、そう思った。

 しかし汚いアパートだ。若い女って、もっと無理してでもいい所に住むもんじゃないのか。学生だってのに。
 とにかく、一度だけチャイムを鳴らそう。出なきゃ帰ればいいんだ。
唾を下げてから、かすれた八分音符を押す。
「うちになんか用す

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1-3 通夜の前

 あのジジイ、なんでたまに笑ってくれなかったんだ。

 「本当にこれだけ?」
どれもこれも、ひどい内容だった。
「そうなのよ、本当に」
おれもお袋も、親戚たちも困り果てていた。
「笑わない人だと思ってたけど、こりゃひでえな。遺影だってのに」
 「やっぱりアズサちゃんのことが…」
いとこのユミが口をつぐむ。
ゆうべからほとんど寝ていないのに加えて、馴れ合いにうんざりしていたおれが顔をしかめたからだ。

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1-2 逝く前

 いすが二脚でよかった。お袋と医者が座ればよかったから。
あれは、三ヵ月後か。おれはその個室にいた。窓の外はひどい嵐で、カーテンがすきま風で揺れていた。
狭い部屋にごつい機械がごちゃごちゃと並んでいたもんだから、おれはお袋の後ろに立っていた。

 お袋が息の荒い親父にすがる。
「お父さん、なんか言いたいことない?お父さん!」
いつものようなお袋の無茶な言葉に、しかし親父ははっきり応えた。
「手ェ、

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1-1 犬の前

 これは、聞いた話。
親父の個室に、女が来たそうだ。
女はベッドのわきで、長いこと親父に話しかけていた。
あの貝みたいに無口な親父に向かって。

 「お父さん、一枚だけでいいので撮りましょう。ねっ」
「いやだ。撮らん」
出会って第一声がそれだ。女は苦笑いして、強引に犬を親父に抱かせた。
「ほら、ジョニーもいい顔してますし。ねえ、先生」
 女についていた講師も、たたみかける。うっとうしい笑顔で。

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