1-4 アパートの前

 カタバミがタンポポの陰で咲いていた。
春もそろそろ盛りを過ぎる。トンビがにぎやかだ。
彩りに満たされた世界に気づいたおれは、そろそろ工房に戻ってもいいか、そう思った。

 しかし汚いアパートだ。若い女って、もっと無理してでもいい所に住むもんじゃないのか。学生だってのに。
 とにかく、一度だけチャイムを鳴らそう。出なきゃ帰ればいいんだ。
唾を下げてから、かすれた八分音符を押す。
「うちになんか用すか?」
なんで後ろから出てくるんだ。ぎょっとして振り返ると、何度も確かめた顔の女が立っていた。写真よりもやつれて、不機嫌に歪められた表情ではあったが、確かにこいつだ。
 「中野ミズホって、あんたか」
「そうっすね」
「佐山タケシってジジイ覚えてるか」
「は?」
こういう時、とっさにできるものの言い方が少なくていつも後悔する。
 「去年の秋、ドッグセラピーの実習とかでホスピス来ただろ。その時ジジイに犬抱かせて写真撮っただろ」
「え?ああ~、あ、そうすね」
なんていい加減な言い方だ。
「ちゃんと思い出せ。あんた、今、学校来てないんだってな」
「です、ね」
あからさまに舌打ちしやがった。
手書きの手紙までつけといて、この態度。どういうことだ。女優にしても出来が良すぎるだろ。
 「行けよ、学校」
「あ~、すんません、そういうのちょっと…」
トリマーになるんじゃないのか、と言いかけたところで、ドアから男が顔を出した。スミの一つでも入ってそうな、威勢の良さとガラの悪さだけが取り柄みたいな、もやしのような男。
「ミズホ、おっせえよ。ビール買うのにどんだけかかんだよ、ばか」
とたんにミズホの顔色が変わる。手のレジ袋はそれか。
「ユウタ、ごめんって。今行く」
顔は笑っていたが、怯えているのは明らかだった。
「じゃ」
「待て」
中へ入ろうとするのを呼び止めて、無視されて、手をつかむ。
「やめろ、おい!」
男言葉で怒鳴っても、離すもんか。
「待てって!」
あの手とよく似た、白くて小さな手。
「あんた、この手…」
「リスカぐらい珍しくもねえだろ」
なんでそんなところまで似てるんだ。
「親父の前でもこんなんだったのか」
目頭が熱い。くそ、泣いてたまるか。
「は?あ、そういうこと?」
鼻で笑うな。知らないくせに。
「こんな手ェして、そんな口利いて親父の手ェ握ったのか!」
 酔っ払いが冷や水を浴びせられたような顔だった。ぱくぱくと、何かを言おうとする。これがこいつの本性か、そう思いかけた。
「おぉいぃ~、ミズホ!」
別の酔っ払いがドアの中から反対の手を引くまでは。
「離せって言ってる」
おれの目頭も冷めてしまった。
「中野さん、悪いこと言わねえ。そいつと別れろ」
「はあ~?」
「ミズホ!」
そっと手を離す。荒い足取りで中に消えた小さな背中に、ドア越しに話しかける。
「親父なあ、最期に言ってたぞ!手ェ握ってくれって!そんで妹の名前呼んで死んでった!」
ばたばたと音がして、ミズホが出てきた。
「どういうこと?」
「おれには昔、妹がいたんだ。でも死んだ。親父より先に。ばかな男に遊ばれて」
青い顔がさらに青ざめていく。
「色の白い美人の顔がひしゃげてた」
「ごめんなさい」
消え入るような声だった。そうか、お前はそういうやつだよな。
 おれは久しぶりに笑っていた。
「あんたのおかげで親父、いつも仏壇で笑ってるよ。ありがとう。じゃあな。学校、行けよ」
ミズホも笑った。カタバミのような笑顔だ。
「ありがとう」

 カタバミ。
何度踏みつけられても咲くのに、誰にも見向きもされない小さな花。

※2-1以降は有料です。

#小説 #創作

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