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過去を振り返って②

こんにちは~ 今回も振り返りシリーズをやっていきます。前回に引き続き、私が小学生の頃に書いたノートを読んで気づいたことをシェアしていきます!

前回では、、昔の自分と今の自分って 実はあまり変わっていないということに気づきました。そこには 確かに、自分らしさ がありました。今と比べると 幼い頃の方が 純粋さがあって、良い意味で真っ直ぐに、素直に生きていたように感じられました。

さて、、ノートを振り返ってみると、幼き私は先生によく質問をしていました。好きな食べ物、先生になった理由、みているテレビ、スポーツ、読んでいる本、ボウリング、お札の人、好きなアイスの種類、好きな肉の種類、行ってみたい国、視聴率、好きなスパゲッティの種類などなど。。。

いやぁ今思うと 質問しすぎていました(笑) 当時の先生は こういうのにも答えてくださってて、、本当にありがたいなぁという気持ちと本当に申し訳ないなぁという気持ちが混ざっております。恐らく、幼き私は シンプルに知りたい!っていう気持ちがあって聞いたのだと思いますが……。それにしてもかなり多くの質問をしていました。

しかし、「先生になった理由」については、小学生の自分と今の私では受け止め方に違いがありました。小さい頃の自分では理解できなかったものが、今では不思議とわかってしまう、、社会を知ること、様々な考え方の人たちが新しい刺激材料となって 自分の中で化学反応が起きて、多文化を認め、受け入れていくことで 当時の背景を想像できるようになります。当時、小学生の私からすると、先生ってとても偉大で、学校でも外でも先生は先生でした。だからこそ見えなかったものが多くありました。けれど、先生も私たちと同じ一人の人間。色々な目的があり、その過程として、今「先生」でいるのかもしれない。「先生」というお仕事をしているのかもしれない。これは、「先生」に限らず、あらゆる仕事をされている人たちも同じです。対等です。あるときは 私が仕事人で相手がお客さん。あるときは 私がお客さんで相手が仕事人。お互いにどこかで支え合っています。。


話がズレてきた気がするので戻ります。昔と今では、質問に対する答えの捉え方が変わってきました。これも、成長したといえるのでしょうか……。


あとはですね、、私は なぜこれほどまでに質問をし続けられるメンタルでいられたのか気になりました。当時の私は正直でしたから、ダメといわれた、してはいけないと教えられた、あるいは学んだことは忠実に守っていました。ですので、しっかりと続いているということには理由があるはずです。その理由は、先生のコメントに隠されていました。それは しっかりと向き合っている姿勢です。複数人の児童のノートに目を通し、なおかつ日記のコメントまでつける先生の立場になって考えてみると、日記の内容に楽しみでありますが、時間に余裕がないときや、気分がすぐれないときにもみるとなると心身に負担になるのではないかと思います。内容によっては、「だから何」とツッコミたくなるようなこともあるでしょうし、「そんなの自分で調べてわざわざ聞かないでよ」と思うこともあるでしょう。おじいちゃんおばあちゃんが孫を温かく見守るような、広い心を持つような感覚、「そうかそうか。それはよかったね」と、受け入れてあげる感覚が大切なのかもしれません。そして、当時の私としても、日記というひとつのコミュニケーションを楽しんでいたと思います。ですので、実際のところ 質問の答えに正確性は求めていない気がします。中身というよりは、リアクションがあるということが目で見てわかることなのかなと思います。

私たちの日常の会話の中でも、アドバイスがほしくて相談する場面もあれば、ただただとにかく聞いてほしいという場面も大いにあるのではないかと思います。子どもたちに限らず、大人も聞いてくれている感覚や反応を示してくれることを求める瞬間はあるのではないでしょうか。むしろ ただ聞いてほしいと思う場面の方が多いようにも思います。このようにして私たちは、コミュニケーションを楽しんでいる、その人との時間を共有したい、つながりを感じたいのかもしれません。

このコミュニケーションが成立するときには 心の余裕さ がカギとなってくると思います。おじいちゃんおばあちゃんが孫を想うように。それは決して上から目線とか見下すというものではなくて、温かく広い心で受けとめ、包み込むような優しい気持ちで接する、、こんなイメージです。

そんなわけで、幼き私が質問を続けられた(コミュニケーションを楽しめた)のは、共感されている・受けいれている感覚・言葉のキャッチボールができている・ほめられる……このようなところがみえてきました。あとは、人によると思いますが、カジュアルな表現も親近感を抱くのかなと思います。・・・そういうわけで、この気づきは 教育や子育てにも役立てることができるのではないかと思います。

大人の階段を上っていくうちに、特定の誰かに質問攻めをするような経験はかなり減っている気がします。それには、質問する機会そのものが減少しているのもあります。また、質問できる機会に遭遇しても、「この年齢だから」とか「恥ずかしいから」とか頭の中で それを引き留める声がきこえてきて質問できなかった、、ということもあるのではないでしょうか。

わからないことを質問するって恥ずかしいことではありません。わからないのに わかっているふりをし続けて 自分自身に嘘をつき続けるほうが、後々振り返ったときに恥ずかしく思えてきますし、そういうものに限ってなかなか忘れることができません。質問することで、新しいコミュニケーションがつくられます。質問された方は、よっぽど忙しくない限り?こたえてくれるでしょうし、頼られることに嫌な気持ちになることって少ないのかなと思います。自分の好きな趣味の話とか、推しの話って時間の許す限り喋っていいといわれたら、つい喋りたくなりませんか?(笑) 私だったら やめられない とまらない かっぱえびせんです。マシンガントークかまします。


えーと、話が脱線しておりました。対面のコミュニケーションも、オンラインも、そして文章だけのものも、共通している大切な要素があります。でもそれって、何かの本を読まないとわからないというわけではなく、実は日常生活の中にヒントが、こたえが転がっています。そして、私たちは人とのつながりを通して このヒントやこたえを 感覚的に知っています。言語化できなかったとしても カラダは、心はそれをわかっています。



私たちはどんな仕事をしていても、
一人の人間であるということ。

そして

コミュニケーションには
求められるもの・求めているものがあり
それらは 子どもだけでなく
大人にも共通しているということ。

心の余裕を持つということ。



どんどんと話が膨らんで あちこちいってしまいますが、そこんところは温かい目でよろしくお願いします(笑)今日は こんなところでどうでしょう。




今日も最後までみてくれてありがとうございました。
また遊びに来てくださいね🍀
それでは!

いつもありがとうございます! これからも 自分らしく、光を発信していきます🌠