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「日本人だから」とか



私の彼はイタリア人で、時々周りから文化の違いとか大変じゃない?と聞かれる。

私の場合それほど大変だと感じた事はないけれど、強いて言えば同棲したての頃、彼がくら寿司でマグロ10貫とサーモン10貫を買ってきた時に赤とピンクの2色しかない寿司を見て『これが外国人と暮らすということか』と深く感じた事がある。

それと夕食のスパゲティ率が高かった時に「今日はスパゲティ以外のものが食べたい」と言う私に「じゃあ今夜はラザニアにしよう♪」と笑顔で答えた時も『これがイタリア人と暮らすということか』とこれからの生活が不安になったこともある。


そんな彼も今では私の作る豚汁を味わい深く啜り、出汁がいいなど分かったような口を聞いている。『慣れ』ってすごいなぁと思う。

日本人と付き合っているのに『なんでわかってくれへんの?』と感じる寂しさに比べたら、外国人と付き合う方が最初から文化の違いを受け入れているぶん寛容でいられるので、私たちは今のところ上手くいってるのかもしれない。

けれど上手くいってると思っていた生活が、彼の我慢のうえで成り立っているとは私は全く思いもしなかった。


学生の時から、元彼からかかってきた電話を「ガキ使はじまるから」とすぐに切ったり、元彼の友達にも「あいつにチョコをあげてくれ!」とバレンタイン後に強く言われた私は、恋愛においてドライなのかもしれない。

人前で手を繋ぐのも好きではないし、年を重ねるごとにドライさは増している様にも思われる。

まだ籍も入れていないのに、老夫婦の様な関係で私たちはいいのだと特に意識もしていなかった。


いつものようにベッドに入り、おやすみのキスをと近づく彼をはいはい。とほっぺたを寄せて軽く交わしたのがいけなかった。

溜めていた思いが爆発し、彼が言った。

「key(私)は愛情表現がない!」

確かにない。自分自身が認めている。

「いつも僕がスキンシップをとって、自分からはしてこない!」

「僕がギブしてばっかりで、keyは全然ギブしてくれない!」

責め続けられた私は
「日本人はシャイやもん!」
と反撃した。

「恋愛はgive&takeでしょ!?」
「どうしてスキンシップをとらないの?愛情表現しないの?」

「日本人はスキンシップが少ないの!日本人は愛情表現とか慣れてないからできへんの!」

「これは日本人じゃなくてkeyの話でしょ!?」


言われてどきん。とした。

自ら『日本人』と自分をカテゴライズして、『日本人はシャイ』だとか主張してる自分は何なのか。
日本人一般論を突き付けたら相手が認めざるを得ないと思って、『日本人は』という私は他の国の誰かが『日本人は』と言ったなら、きっと反発するのだろう。

得な時だけ日本人。
なんて勝手な日本人の私。


私は自分の非を認め、努力すると応えた。
愛情を表すということは国など関係なく素敵なことだと分かったし、言葉で思いを伝える事も大切だと思い知った。

言わぬが花と世阿弥の言葉があるけれど、いかにも日本人らしいなと思った私は、今日も知らない間に誰かを差別しているのかもしれない。




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