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創作小説(20) 夏、眠るまでの特別な時間

夏。
日光で熱せられたアスファルトが熱を帯びる。

鈴木一美(すずき かずみ)には特筆する趣味や特技はない。
休日は彼氏の小野とデートをすることもあるが、それ以外は読書をしたり、ジムで体を動かしたりして過ごす。
唯一、好きなのは夜、眠るまでの時間である。
特にこの夏は「夜、眠りに落ちるまでの特別な時間」を大切にしつつ、毎日を過ごした。


今年の夏は、小野との仕事の都合が全く合わず、一人で過ごした。
一人で過ごす夏、特に長期休暇はなかなか精神的に堪えるものがあった。
寂しさを感じたが、毎日を同じルーティンで過ごすことで、どうにか紛らわそうとした。
毎日同じ時間に起き、仕事がある日は仕事へ行き、休日は読書やジムで体を動かし、夜更かしをすることなく寝た。
食事は夏を連想させるもの、かき氷や西瓜、冷麦を食べて過ごした。
それ等は特段したかった訳でもなければ、食べたかった訳でもない。
毎日、同じことを繰り返すことで、孤独の寂しさや苦痛から逃れようとしたのである。

彼のことを思うだけで思い出される。
ちょうど昨年、同じ時期に彼と花火大会に行った時の夏草の香り。
周囲からは屋台や汗など様々な香りや匂いを感じた。
香りや匂いが混ざり過ぎて、吐き気を感じた程だった。
しかし、一美は彼の匂いだけは判別することができた。
汗と爽やかな整髪料が混ざった香りがしたからである。
昨年は楽しい夏を過ごした。
でも今年は少なくとも楽しさはない。
香りや匂いなど何も感じない。
かき氷や西瓜の甘い汁の香りや冷麦の出汁の染みの匂いくらいである。

そんなことを思い出しつつ、ふと外を見ると外でずっと鳴いていたアブラゼミが地面に落ちていた。
アブラゼミは誰も気に留めることのない最期の一言を鳴き終えて落ちていった。
一美は暑がりで冷房でキンキンに部屋を冷やしている。
冷房の室外機が「ゴーッ」と音を立てている。
「ボーッ」と地面に落ちたアブラゼミの姿を一美は見ていた。
一美は冷房を消した。
たった一匹のアブラゼミで物悲しい気持ちになった自分自身を隠したかったのかもしれない。

冷房を消すと、暑さが戻ってくる感じがある。
部屋がまた日光で熱せられ、熱を帯びていく。
そうなると昨年の楽しかった外出の思い出、特に花火大会が思い出される。
確か、あの日は浴衣を着て行った。
慣れない浴衣に丈が合わず、ビーチサンダルと足が擦れて痒かった記憶がある。

思い出はどんどん加速していく。

花火大会の思い出に戻る。
花火が上がる時、一瞬、外が明るくなる。
Tシャツの彼の一瞬見える鎖骨を汗が流れていく。
そのことに見惚れていると、屋台で買った水風船を落としてしまった。
花火と水風船が同時に爆ぜた。

そんな毎日が一美にとっては楽しく、刺激的だった。
今年の寂しくて、苦しい夏とは大違いだ。

一美は思った。楽しい思い出程、どんどん加速して思い出されていく。
なのに苦しい思いはどんどん速度が落ちて何度も何度も味わうかのように時の流れを遅く感じさせる。

一美はまた冷房をつけた。
そして、夜、眠るまでの時間、部屋をキンキンに冷やしつつ、「ゴーッ」という室外機の音を聞きつつ、ただただ「ボーッ」として過ごすのだった。
そんな今年の夏の毎日だった。


鈴木一美にとっての一日に最も大切にしているのは夜、眠るまでの時間である。
毎日、一日のハイライトをしながら眠りにつくのだ。
しかし、彼氏と会えない寂しさから、一美は今回は今年と昨年の夏を比べて思いをはせながら、残された夏の毎日の眠りについていた。


夜、眠るまでの特別な時間。

それは、
かき氷をガリガリ。
すいかをシャリシャリ。
冷麦をスルスル。

夜、眠るまでの特別な時間。

それは、
夏草の香り。
周囲の屋台の香りや汗の匂い。
汗と整髪料が混ざった香り。

夜、眠るまでの特別な時間。

それは、
アブラゼミ。
冷房の機械音。
アブラゼミの最期の一音をかき消す音。

夜、眠るまでの特別な時間。

それは、
浴衣。
生足にビーチサンダル。
浴衣が擦れる感触。

夜、眠るまでの特別な時間。

それは、
花火。
一瞬見える鎖骨を汗が流れていく。
屋台で買った水風船が爆ぜる。


今年の夏を彼と過ごせなかった寂しさや苦しみが少しだけ和らぐ。
そして昨年の夏に彼と過ごした刺激的な楽しさが思い出される。
来年の夏はどんな夏を過ごしているのだろうか。
今年の夏のように寂しくて苦しい夏か。
昨年の夏のように刺激的な楽しさがあるか。

一美はどうせ考えるのであれば、刺激的で楽しい夏がくると思って一年を過ごそうと思った。
そうすれば、時間の流れを速く感じることができるし、その分、苦しまなくて済む。

あえて寂しさや苦しみが長く続くと考え、流れる時間を遅く捉える必要はないと考えを整理した。

来年の夏を待ち遠しく感じる。
だから鈴木一美は夜、眠るまでの時間が一番大好き。

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