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DAY1 幼少期を振り返る

はじめまして!今日から自分の軸がなんなのか、しっかり見つかるまでこのノートに記録を書いていきます!
というのもとある投資家さんとの面談で話していた時に自分の言語化のできてなさに驚きを隠せなかったから!

今日は幼少期のみで振り返ります。
自分の記憶に人生の軸あり!

【所属 思い出 考えたこと&感じたこと】

M幼稚園(年少のみ所属)

キリスト教の幼稚園に姉と同じく通う。
この時は共学。特定の子と仲良しというよりはいろんな子とまんべくなく仲良く他のクラスの子とも遊ぶ社交性もあった。そして女子のおままごとよりは男の子たちと外で走り回るのが好きでよくかけっこしてた。
あとは姉の友達が同級生の男の子をいじめるからセーラームーンごっこで退治しようとしていた。

なんで弱い者(年下)をいじめるんだろう。体が大きいからって理不尽だ。
女の子には手をあげてこなかったけれども理不尽なことは許せないという正義感があった。

K幼稚園(年中、年長)

姉が小学校に入るタイミングで私も転校。ここから女子校生活がはじまる。
特に違和感なくなじむ。粘土遊びが好きだった。
この頃から人には性格悪い子がいるんだと知る。
このときも誰かとすごく仲良くするというよりはみんなと適度な距離を保ちながら平等に仲良くする。

みんなをすごくよく観察している。この子はこういうリアクションをとるのはなんでだろう?が気になる。人の喜怒哀楽にその人と同じくらいまで入り込んでしまう傾向がある。なので自分の周りの人たちに笑顔でいてほしいと強く思う。そんな仲良くない子が友達からもらったステッカーで大喜びしているのを見た時にあんなに喜ぶなら私もあの笑顔にさせてみたいと姉がもってたキラキラのステッカーをプレゼントしてみる。案の定とてつもなく喜んでくれたが先生にまで報告されて、別室に呼ばれてもってきてはいけないもの持ってきたことを怒られる&姉の宝物を勝手に人にあげて怒られる

人を笑顔にさせることってとても満たされるし、笑顔に貢献したい。
一方ルールは守らないと怒られるし、自分や身内を犠牲にしてはいけない

プライベート編

東京編
0歳から5歳までは父方の祖父母のすぐ側で暮らす。
父方の祖父母は驚くほど穏やかで大好きな人たち。
自宅の下に自営業の祖父の事務所があったので、そこにいっては遊んでもらう絶対的な居心地の良い場所。従業員さんにもお世話になる。昼寝から起きて母や姉がいないとすぐ事務所にいっていた。
そんな私にとっての居場所の祖父が病気で小1のときに亡くなる。
寡黙であまり社交的ではない祖父だったがお葬式の参列者の数に驚く。300人ほどはいたことを覚えている。身近な人をとても大事にする祖父は多くの人に慕われていた。悲しみにくれるよりも参列者はなつかしみなどを話していて、亡くなった祖父が非常に慕われていたことを知った。

亡くなった時にもみんながあたたかい気持ちになる人でありたい。そして身近な人々を幸せにする心が寛大な包容力のある経営者の祖父のようになりたい

伊豆編
母方の祖母は伊豆に住んでいて喫茶店を経営していた。祖父は私の生前に他界しあったことはないが、アイスクリームの卸もやっていた。
私は幼少期その喫茶店の手伝いがたのしくてしょうがなかった。
理由は
①地元のなじみのお客さんが集まるアットホームな環境に居心地の良さを覚えていたこと
②自分がお手伝いをすることで祖母の役に立つことが嬉しかったこと
③働いてお金をもらえる楽しさがあったこと
夏休みは海などにいくよりも喫茶店の手伝いが好きだった。

小さいながらじっとしているよりも人の真似をしたり、よく動いていた。人が自分の働きにより笑顔になることそしてそれによりそれにより報酬がもらえるという両方の満たされる感覚があった。
手に届く人たちを自分の働きかけで笑顔にしていくことが好き

K小学校

エスカレーターで小学校へ進学。4月生まれで身体も大きく、少しませてたからか何かと代表や学級委員などに選べれる。基本何かの代表に選べばれたりするのは好きだが、選んでもらった以上は期待をまっとうしたい。ただめちゃくちゃあがり症で声ががたがた震える。とにかく場数で練習しまくった。

人に求められるポジションを全うすることがたとえ自分が苦手でもやりがいを感じる

習い事
書道、ソルフェージュ、プール、国語塾、英会話、サマースクール
たくさんの習い事に通う。
毎日予定があること、それぞれの環境ごとにいろんな人がいることがとにかく楽しかった。みんなと友達になりたいと思っていたがずっと同じコミュニティーにいたので人見知りで自分から話しかけることができない。
そんな時小学校の仲良しの友人が中学受験をすることを知る。
普通に中学に進むものと思っていたときに受験というものに興味をもつ。国語の塾で出会ったFに通う子たちと友達になりたいと思ったとき自分も同じコミュニティーに入ればいいのか!と思いつき受験を決意。

塾だと回数が限られていてすでに友達の関係ができてる人の輪に入ることはハードルが高いし、自分がアウェイからのチャレンジになる。それよりも共に過ごす時間の長い学校というコミュニティーを一緒にすればその人たちに近づくことができる

日能研
受験する際に受験塾として日能研に入る。
ただし、習い事でもそうだが男の子と話すことができない。自分からすると同じ人間ではなく異生物。家族も父が単身赴任で女3人の生活だったこともあり、とにかく男の子に話しかけられても声がでず身体が反応して手がでてしまい暴力女といじられる。でもものすごく楽しい環境だった。日能研では習い事とは違い夏休みなど共に時間を過ごすことが大きく、毎日の学校生活よりもたのしい日々
自分の知らない世界に身を置く。でも一方で自分をだしきれない、目立たない存在であることにもどかしさを感じていた。だからその反動で家でのおしゃべりが半端なかった。人と繋がるにはコミュニケーションが必要。

受験校の選定はレベル的にFをあきらめてからは正直どこでもよかった。
なんとなく行きたいところがあったがそのより上のレベルで母に勧められた学校を受験し、運良く自分のレベルより上だったことからそこにいくことになる。その後中高生活はなかなかの暗黒時代にはいる。

自分の直感がワクワクしない、気乗りしないコミュニティー、環境に進んではいけない(第一回目)

続く



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