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蒼い大伽藍

これから一週間、休みます。
 
そう言って電話を切ったのは、
那覇で大きな仕事を終えた後だった。
 
その足で慶良間諸島の阿嘉島に向かった。
ダイビングライセンス取得の3泊4日、
これまでの人生で、最もリズムの異なる、
揺蕩うような時間が始まった。
 
民宿に着くと、オープンテラスに、
白いワンピースと大きな帽子を着こなす、
20代後半と目されるものすごい美人がいて、
南国のカクテルを口にしながら、
とてもアンニュイな笑顔で出迎えてくれた。
 
同部屋は気さくな若い男性で、東京の郵便局員さんとのこと。
この島の魅力にとりつかれ、毎年やってくるんだそうだ。
 
翌日からダイビング講習が始まった。
まず上手く沈むこと、中性浮力で安定すること、バディ同士のサイン交換、海底でのマスク取り外し、緊急浮上、などなど。
一通りの実技を経たのち、水深20mの海底に立った。
 
静かだった。
どこか遠くのほうから、ゆったりとした波の音が聞こえる。
周りを見渡すと、限りなく蒼く、青く、碧かった。
 
上を見やると、海面が見える。
波間の煌めきや、小魚の動きが、鮮明に映った。
慶良間近海の透明度は世界一、その意味を初めて知った。
 
民宿に戻り、夕食の後は宴会となった。
例の美人と、郵便局員と、その他の客を含めて、
オープンテラスで、ダラダラとその日あったことや、
自分のことを話したりして、面白おかしく過ごした。
 
ど美人は、国際線のCAさんで、毎年この時期に、
長期滞在でバカンスを過ごすのだという。
まったく、そんな暮らし方が現実にあったんだなんて。
 
講習の最終日には、サンゴ礁に行った。
それは圧巻の広がりと豊かさを持った、海中の丘陵だった。
鮮やかで輝くような色彩が目を打ち、
四方に立派な枝葉が成長していて、さながら大伽藍のようだった。
 
礁にはクマノミが暮らしていた。
ウミガメもいた、沖マグロもいた。
生き物たちの日々の生活がそこにあった。
 
民宿への帰り道、
二人づれの若い女子がキャリーバッグの故障で、
立ち往生しているのに出会った。
事情を聞き、二人の民宿まで運んであげることにした。
片方は、とても清楚な小柄な美人で、
帰り際にせめて連絡先をと問われたが、
格好をつけて名前も名乗らずその場を後にした。
SNSがある世の中だったら、もっと気軽だったかもしれないが。
 
島を立ち去る日がきた。
時間の関係で飛行機で帰ることにした。
ボートで隣の島の空港に向かい、セスナ機で那覇に飛ぶ。
 
機内から見る慶良間の海はまた格別で、
晴天の中、透明度の高さから、
見渡す限りの透き通った海原が、眼下を疾走していった。
そして機体は高度を上げ、島は後方にかすみ、見えなくなった。
 
翌年、必ず再訪するつもりだったが、
さまざまな事情から叶わなかった。
その次の年も上手くいかなかった。
 
結局足が遠のき、あれ以来、行ったことはない。
あの海は、まだあの頃のように、静かなままだろうか。
 

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