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手持ち無沙汰[短散文]

 東から当然のように昇ってくる陽の光りを浴びて、起きる。目やにが溜まって開けづらくなるほど寝たので、布団からはすぐに出られない。大きなあくびをして、猫よりは下手くそに伸びをする。柔らかな誘惑からやっとの思いで抜け出して、台所に向かう。
 一人暮らしをすると決めた時に、大は小を兼ねると思って買った、1人には大きすぎるオーブントースターにのせた食パンが、いつも寂しそうに見える。近所のスーパーで決まって買うバターを塗って、一口かじる。どうしようもなくパンの屑がこぼれ落ちていって、苛立ちを覚える。洗い物を増やすのが嫌だから、シンクの上で朝食を済ませて、外に出る準備をする。少し暑苦しさを感じ始めて、服装もだんだん適当になってきた。色が騒がしくならなければ、なんでもいいかと思って、黒いTシャツに深い青のデニムを身に着けて、財布とタバコと一冊、適当に本棚から抜き出した小説を片手にドアノブに手をかける。
 まだセミは鳴いていないが、春はもう通り過ぎていって、戻っては来ないようだった。春はいつも別れを言い忘れてどこかへ行ってしまう。
 子どもが、アクリルガッシュで無邪気に塗りたくったみたいな、ホライズンブルーの空に、立体的な雲が良く映えていて、先ほどまでの春の喪失感をあっという間に薄れさせる。花火とかお祭とか、そんなのんきなものばかりが頭をよぎる。
 川沿いにある喫茶店に入って、アイスコーヒーを頼む。いつも決まって、大きな窓際のカウンター席に座る。氷が溶けて、風鈴のような涼しげな音を立ててくれる。持ってきた小説を読みながら、淡い記憶を辿って、初恋の人を想い出してみた。きっと、読んでいる小説の中に出てくる女性が、自分と同じくらいの男に恋をしているせいだろう。
 あの頃も今も、恋だの愛だのというものは、なにひとつわからない。一生を掛けても、その半分もわからないだろう。当時と少し違うのは、あまり臆さずともよいと考えるようになったことだ。
 天道虫くらいの小さな文字を見続けて、少し疲れたら、大きな窓に視線を移してみる。窓を挟んで見える通りのすぐ傍にはバス停があって、ドアの開閉ブザーと、発進の合図が繰り返されていた。人が少し集まっては吸い込まれていくさまは、ベルトコンベアに流れていくモノのようだった。

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